第16話 失心

文字数 1,745文字

 謁見の間を、朦朧とする意識、ふらつく足取りで出た仙千代は、
どのようにして部屋へ戻ったか、覚えていない。
 
 怒りなのか、悲しみなのか、憎しみなのか、妬みなのか、
あらゆる後ろ向きの感情が渦巻いて仙千代の心を蹂躙し、
その襞を燃え盛る炎で焼くと真っ赤な爛れ(ただれ)が後に残った。

 一人になるなり、前のめりに倒れ込み、
頭が割れても構わないというほど床に額をぐいぐい押し付け、
握った拳も指が折れるかというほど力を込めている。

 肩で大きく息を吸っても呼吸の苦しさに変化はない。

 「ああっ、ああーっ!」

 と叫びとも嗚咽とも言えない音声(おんじょう)を発し、
それでも他所へ聞かれまいと袖を噛んだ。

 勘九郎様が!勘九郎様が!……

 「若殿」ではなく、名を呼んでいた。

 勘九郎様が御相手を見付けてしまわれた!……
勘九郎様が恋を……

 清三郎の氏素性が町人だと聞き、信重の思いを仙千代は知った。
あてがわれたのではなく、
信重自身の選びで清三郎はそこに居た。
 恋しい気持ちがよほど募らなければ、
商人の子を小姓にしたりはしない。

 裏切られたのでないことは知っている。
仙千代は信重からきっぱり別れを切り出されていた。
あまつさえ、嫌われ、蔑まれてもいる。

 「人の手紙を盗むような奴は儂は嫌いじゃ!
出ていけ!」

 最後、投げ付けられた言葉はそれだった。

 勘九郎様、勘九郎様!……

 蔑まれて思いが断ち切れるなら苦しみはしない。
不快な言葉を投げられたからと諦められるなら、
これほど悲しい思いはしない。

 今でも慕って止まない信重の顔が思い浮かんで、
慕う分だけ負の感情が押し寄せる。

 どす黒い思いが奔流となって仙千代を覆い、
ぱっかりと口を開けた妬心という名の焼け地獄へ身を投げられる。

 信重は、いつか仙千代にしたように、
清三郎の髪を撫で、抱いて甘い言葉を囁くのか、
そして、
仙千代は知らない信重の褥での姿をあの者は見るのか、
想像すると全身が熱い毒流で焼け爛れたようになる。

 死ねばいいのに!あんな奴!
あんな奴、死ねばいい!そして儂も死ぬ!
儂も死ぬからあいつだって死ねばいい!……

 あいつが信重なのか清三郎なのかさえ、分からない。
しかし仙千代には二人が並んで共に居ることが許せず、
引き離そうという意識がそのような言葉を投げさせた。

 額を床に擦り付け、
見開いたままの目から果てしない涙を流しながら、
何もかもを仙千代は呪った。

 何も悪いことはしていない、そのはずだ……
ただ一所懸命、何でもやってきただっただけ……
皆を幸せにしたい、その思いでやってきた……
何処で何を間違えてこんなことになってしまったのか……
それとも、誰かを慕う想いを抱いたこと自体、邪心であって、
儂には誰かを想うことも許されないのか……

 信重も清三郎も悪くないことなど、知っている。
では、捨てそびれてあった手紙(ふみ)を拾い、
持ち帰ったことがそこまで悪いことなのかと自問をすれば、
信重の人柄からすれば嫌悪されても致し方ないとは思う。
 
 何より、信長の寵愛は避けられなかった。
今や帝が縋り、将軍にまで訓戒を与える信長に、
一小姓が歯向かう術を持っているはずなど有り得なかった。

 殿が儂を気に入りさえしていなければ……

 それを思うと、ふっと涙が止まる。
だが、それこそ意味のないことだった。
信長に所望されたからこそ、岐阜へ来られた。
本来ならば、儀長城の餅つき行事の日、ただ一度、
信重と会い、言葉を交わし、それですべてが終わっていた。

 殿をお恨み申し上げることなどできない……
殿あってこその若殿、
殿の御声掛けの御蔭で今がある儂じゃ……

 最後には、やはり、万見の皆の顔が浮かんだ。
いつも飾りのなかった垂髪が絹の赤い紐で結われていた姉、
お下がりの仕立て直しばかりだった妹が新調の小袖を着、
身体の不調な養父(ちち)が咎めを受けず十分休んで、
且つ、医師を付けてもらって良い薬を処方され、
養母(はは)もようやく笑顔が戻った。
しかも、恐縮しても恐縮してもしきれないのが邸の普請で、
万見の父から寄越された手紙(ふみ)には、
完成した新造の邸へ引っ越しが叶ったと書かれてあった。

 仙千代は泣き疲れ、床に俯せたまま、眠った。
辛い時、苦しい時、般若経を書き綴り、
心の憂さを追い払おうと努めることが常だった。
しかしこの時は、立ち上がることさえ、困難だった。



 
 




 


 

 


 
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