第107話 殿名の陣(2)

文字数 1,641文字

 紫陽花の苑で、透明な鎧櫃(よろいびつ)を、
手作りしている清三郎の夢を見たばかりだった仙千代は、
何やら清三郎を儚くしてしまったような意識に囚われ、
妙な気後れを感じ、
挨拶をされても、鈍ら(なまくら)な反応しか返せなかった。

 清三郎、許せ、あのような夢を見た儂を……
儂の呆けぶりばかりが知れた、そんな夢だった……

 信忠を恋慕する仙千代の心が、
鎧櫃を信忠に捧げようという清三郎の純な思いを妬み、
無意識にあのような夢を見させたのだと解釈した仙千代は、
心中で清三郎に詫びた。

 信長、信忠が食事をしている間、
隣室で父子の小姓達も夕餉を摂った。

 互いに戦況を報告し合いながらも食べる速度は落とさない。
いつ何時、主達から声が掛かるか分からないので、
味わっている暇などはない。

 いつの間にか清三郎も早飯になっていた。
大根責めに遭っていた時は、
おっとりした食べっぷりだったのだから、
そこでも清三郎の変化が見て取れた。

 食べ終えたなら、各自が膳を厨房へ運び、
食器ぐらいは自分で洗う。

 清三郎と並んで器を洗っている仙千代から、
つっと自然に謝罪が漏れた。

 「(せい)、何かとすまぬ。今、ここで詫びておく」

 清三郎が不思議そうな顔をした。

 「何を詫びられるのです?」

 「いつも愛想がなかった」

 声を立てて清三郎は笑った。

 「確かに不愛想でした。特に私に」

 「うむ」

 「何故?」

 「う?うむ……何やら虫が好かんかった。
町人風情が……とでも思っていたか。愚かなことだ。
身分を言い出せば上も下も果てがないのに」

 実際は身分など、どうでもいいことだった。
たとえ大身の大名家の子息であっても、
信忠が閨房に召し寄せるなら、
妬み(ねたみ)の刃に襲われて血塗れになり、
嫉み(そねみ)に焼かれて発狂しそうになっていた。

 「許せ。このとおり」

 仙千代は清三郎に正対し、(こうべ)を垂れた。

 若殿を好きだ、こればかりはどうしようもない、
若殿と過ごした日々、ひと時ひと時が忘れられない……
なれど、清三郎に嫉妬してあのような夢を見る儂は、
地獄に百回落ちても足りないほどに心が醜い……

 顔を上げると清三郎が晴れやかに微笑んでいた。

 「狭い了見を詫びる。申し訳ない」

 「では、此度は私の勝ちですね」

 「此度は?勝ち?」

 「大根騒動の時は仙様よりも先に音をあげ、負けました」

 「あれも(せい)に二人分謝らせただけだ、若殿に」

 清三郎を「清」と呼んで今は何の違和もない。

 「なれど、仙様は最後まで食べ続け、
終いには殿も若殿もそんな仙様に根負けされました」

 「強情なことに呆れられたのだな……
思えば、あれも甘えだった。殿の御寵愛に甘えた」

 信長に寵愛されていると自ら口にしてしまい、
直後、図々しいと感じる恥の思いが湧いたが、
清三郎は仙千代をそのまま受け止め、
仙千代自身、信忠の寵童である清三郎との会話では、
余所行きの言葉で飾っても却って虚しいと思い直した。

 「私はたいしたものですね。
殿にすら詫びない仙様に詫びさせた」

 「そう言われると憎たらしい。やはり謝罪は撤回じゃ」

 「口から出たものは引っ込みませぬ」

 「いや、引っ込める」

 「引っ込みません」

 「いやいや、引っ込んだ」

 「では、このように!」

 清三郎が仙千代の顏を押さえ、口を強引に開けさせると、
拳を突っ込もうとした。

 「くっ、苦しい!顎が外れる!」

 「謝罪の言葉を取り戻します!」

 「んぐぐ、ぐっ、苦しいっー!」

 そこへ三郎が現れた。

 「仙千代、清三郎、声が大きい!」

 「あっ!」

 「アッ!」

 「総大将も副将も夕餉を終えられた。早う、御膳所へ戻れ」

 「あいわかった!」

 「あい済まぬ!」

 信長と信忠の許へ行く途中、
清三郎が後ろに居た仙千代に軽く蹴りを入れた。
仙千代は直ぐ様、清三郎の首をひっつかみ、

 「この続きは岐阜へ帰ってからじゃ!
可愛げがない!やはり儂は詫びぬことにした!」

 「負けませぬ、仙様には絶対詫びていただきます!」

 と、やり取りを交わしていると三郎が振り返り、

 「やかましい、それこそ、岐阜でやれ」

 と叱責を加えた。

 


 

 

 

 



 


 

 

 
 


 


 
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