第341話 武田勝頼 三河侵攻

文字数 1,285文字

 天正三年五月、
武田勝頼の三河侵攻が本格化し、
同盟の徳川家康から信長に正式な援軍要請が入った。
 
 先月、家康は浜松を出陣し、
賢将 酒井忠次を城代としている東三河の吉田城に立て籠もっていた。
 信濃から南下している武田軍は、
家康の生誕地であり、
その嫡子 信康が、
正室である信長の娘 徳姫と居住する岡崎城を手中にせんと狙いを定め、
出城である吉田城を突き崩そうと動いていた。
 岡崎を手にすれば、
西に接する安祥(あんじょう)池鯉鮒(ちりゅう)を経て、
そこから先は境川をまたいで信長の本領地 尾張国に入り、
桶狭間、鳴海へと続く。
 十五年前、今川義元に桶狭間の合戦で勝利した信長は、
義元の首と引き換えに鳴海城を得て、
宿老 佐久間信盛を城主に据えた。
 
 昨年、家康は、
東の重要拠点、高天神城を勝頼に奪われていた。
これにより勝頼は、
西へ圧を加えることに成功し、
今回も東三河各地に付城(つけじろ)を築き、
徳川家の領地を蝕んでいた。

 一昨年、今は亡き信玄の陽動に乗り、
三方ヶ原の戦いで大敗を喫し、
多勢の兵を失い、
自らも命からがら浜松へ逃げ帰った家康は、
今度こそ、負けるわけにはゆかない一戦だった。
 
 高天神城も、三方ヶ原も、
浅井、朝倉、本願寺、三好といった厳しい包囲網に、
信長は家康を十分援護してやることが出来ず、
家康も単独で武田に打ち勝つ力を持していなかった。
 重要な城を落とされ、
武田の領地を最大にしてしまった家康の無念もさりながら、
信長もまた、
三方ヶ原の口惜しさを忘れてはいない。
 織田の本隊は身動きが取れずにいたが、
古参の林秀貞、佐久間信盛を徳川軍に加勢させ、
信長の傳役(もり)であった平手政秀の嫡孫で、
日頃から目を掛けていた汎秀(ひろひで)もそこに加わっていた。
 林と佐久間は勝機無しとみて撤退戦に転じたものの、
汎秀は居残って家康と共に戦い、
不慣れな地理に苦しんで、戦場に散った。
 竹丸の叔父である、信長の若き日の小姓、
長谷川橋介も三方ヶ原の露と消えた。
 
 今回信長は、来たる武田との大戦を想定し、
準備を整えていた。
 とりわけ、街道整備は出色で、
道の両脇に木を植えて旅の苦難を軽減させた他、
京と美濃の間の山を切り通し、三里も距離を縮めた上に、
道幅を広くして急な傾斜は平坦にし、
大きな岩は取り除き、橋も増やした。
 畿内と自国の物資と人を遅滞なく移動させる手段を得た信長は、
かねてより注文していた量産型鉄砲も、
今回三百挺の入手が確実となって、
それらも新たな街道を使い、
近江から三河へ可及的速やかに運ばれる算段となっていた。

 この三年で、
浅井長政、朝倉義景、三好宗家を滅ぼし、
石山本願寺も今や青色吐息の状態に追い込んだ。
 長年、東の最大驚異として君臨している武田との戦に、
信長は満を持し、
武器弾薬、兵糧、兵の備えに使うよう、
昨年は家康に大量の黄金を渡し、
家康も抜かりなく支度を進めた。

 家康が籠った吉田城は要害の地で、
家康が入城したことにより一段と守りが堅く、
勝頼は攻め倦んで(あぐんで)いた。
 籠城戦となれば長くなる。
長くなれば信長が来る。
 先代以来の重臣達の進言か、
家康の居る吉田城を諦めて、勝頼は軍勢を北へ戻した。
 そこには長篠城があった。

 


 




 


 

 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み