第390話 志多羅の戦い(9)高松山の陣

文字数 1,562文字

 攻め太鼓の地響きのような音が、
絶え間なく打ち鳴らされる。
 
 その主は武田軍左翼の中核を担った、
先鋒の山県(やまがた)昌景隊だった。
 
 昌景は戦国最強と謳われる、
赤備えの軍勢を率いて、
徳川軍の最前線 大久保忠世と弟 忠佐(ただすけ)に、
突撃をかけてきた。
 
 赤備えは精鋭武士団の象徴であり、
赤い染色の原料は、
辰砂(しんしゃ)と呼ばれる高価な鉱石が使われていた。
 昌景の部隊は武具甲冑、
馬具、指物に至るまで、
ふんだんに赤揃えとなっていて、
襲来の迫力、いや、恐怖は、
人血を浴びる経験をしている仙千代も、
脈動が速まり、
肩で息をしなければならない程のものだった。

 昌景隊の猛撃を受けた忠世、忠佐は、
自身指物を背に纏っており、
羽根を広げた金の揚羽が、
晴れ間となった初夏の陽を浴び、
眩い光を放ちながら前後左右に激しく動いた。

 「あれに見えるは大久保か」

 信長が誰にともなく問うた。

 「金色(こんじき)の揚羽蝶とは。
ふん、小憎たらしい」
 
 金に輝く、
今にも羽ばたこうという蝶の指物は、
いかにも信長好みの華やかさだった。
 
 家康は、

 「はっ!
歴々の古将より目立つ左様な物はと、
以前、叱り申したものの、
あの者どもは大久保の支流の家にて、
常に戦では一命を賭して戦う立場、
死に際こそは金の羽にて飛び立ちますると言い返し、
まったく可愛気が無く!
今一度、叱りつけておきまする!」

 と言いつつも、
戦況が気になり心ここにあらずで、
信長を見もせず、
砲撃の大音声(だいおんじょう)に負けぬ大声で、
一気にまくしたてた。

 「あの兄弟か。
確か昨夜の軍議で、先鋒を任せよと、
しゃしゃり出ていた……」

 と大久保兄弟を見据える信長は、
気に入りの、
煌めく金の唐傘の馬印を従えて、
さも楽し気だった。

 戦況を見て仙千代は、
信長に本陣へ移るよう、進言した。
 忠世、忠佐はよく戦っている。
大久保隊を援護する、
家康の異母弟(おとうと) 内藤信成も、
家康が壊滅的惨敗を喫した三方ヶ原で、
殿(しんがり)を果たした猛者だけはあり、
目を瞠る(みはる)武辺を見せた。
 だが、家康の高松山の陣は、
柵が突破されれば一気に危険地帯と変わる。

 「茶臼山に上がられませ!」

 と仙千代が、
鐘太鼓、馬の嘶き(いななき)、銃砲の合間に叫ぶと、
頷いた信長だったが、
馬廻り衆が一斉に向きを変えようとする直前、

 「見よ!」

 と、眼下を指した。

 織田、徳川の先兵達が、
連吾川まで前進していたところで踵を返し、
陣地内に逃げ込んでいた。
 鬼気迫る武田軍は、
騎虎之勢(きこのいきおい)で迫り寄せ、
赤揃えの山県隊に続き、
信玄の弟 武田信廉と見られる二番手も突進してきた。
 家康の陣からは全容把握が不能だが、
連合軍左翼や中央部でも敵の川越えは既に確かで、
騎馬や旗の間に、
大将の顏が見えるのではないかと思われる程、
武田軍が接近していた。

 「引き付けるのだ、
引き付け切ったところで散々に撃ち立てよ!
敵に背を向け、逃げ切って、
柵前に絶え間なく撃ち込むのだ!」

 前以て出されていた触れの通り、
織田と徳川の鉄砲は、
武田が間近まで追い上げてきたところで火を吹いて、
人馬を次々に打ち倒していた。

 「猶予はありませぬ!
本陣にて采配をお揮い(ふるい)ください!」

 仙千代が再び叫んだ。
 放っておくと信長は、
ここで家康父子と戦いかねないと思われるほど、
他の生き物が棲み付いているかのような佇まいを醸し、
瞳が異様に輝いていた。

 「上様!茶臼山へ!」

 鬼面そうろうとなった仙千代に耳を留めつつ、
尚、最前線に、
後ろ髪を引かれるような面持ちの信長だった。

 「本陣が空になっておりまする!」

 仙千代が絶叫した。

 「ええい、むむっ、分かっておる!」

 すると馬の腹を、
馬上の信長に気付かれないように、
竹丸が程好い強さで軽く叩いた(はたいた)
 黒鹿毛(くろかげ)はサッと前に出て、
前線に未練を残す信長を、
茶臼山本陣に向かわせた。

 志多羅原の霧はすっかり失せて、
雨に洗われた大気は澄み切り、
陽は蒼天の真上に近付きつつあった。




 

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み