第51話 朝倉義景 切腹

文字数 923文字

 信長が読んだとおり、朝倉義景の軍勢は敗走し始めていた。

 織田軍の将兵は、
それを追撃して討ち取った首を我も我もと持ち帰り、
敦賀までの十一里の間に討たれた首は三千にもなった。

 破竹の勢いで信長は、大嶽、焼尾、義景の本陣 田上山、
敦賀、賤ヶ岳など、合わせて十ヶ所の城を手中に収めた。

 信長は、踵まではない短い草履、
足半(あしなか)をいつも腰に付けていた。
 刀根山の合戦で、
兼松正吉という者が朝倉の部将、中村新兵衛を山中に追い掛け、
ついに討ち取って、首を持ってきた。
 その時、正吉は裸足で、足が血まみれだった。

 信長は、

 「斯様な時に役に立つ」

 と言って、正吉に草履を与えた。
 義景打倒まで、あと少しだった。
 思い通りの大勝利を収め、信長の機嫌は良かった。

 同日、朝倉義景に仕えていた斎藤龍興が織田軍の攻撃により、
越前で戦死した。
 信長にとっては(つま)の甥にあたる武将で、
亡き斎藤道三の孫でもあった。

 十七日、信長は越前中央部へ乱入した。
 十八日、越前国府中竜門寺に布陣。
朝倉義景は、一乗谷城を退去し、賢松寺へ逃亡した。
 奥向きの女達は輿車にも乗らず徒歩で、
我先に義景の後を追い、落ちのびていった。

 信長は、諸将に、義景追撃と落ち武者狩りを命じた。
諸兵は毎日、百人、二百人と縛り括って、
竜門寺の本陣へ連れてきた。
 信長はこれを、小姓衆に命じて、際限もなく斬首させた。

 平泉寺の僧衆も信長に従うことを誓い、
人数を出して加勢した。いよいよ義景は追い詰められた。

 天正元年葉月の二十日、
朝倉義景は越前国賢松寺にて自害した。
 最後は朝倉一門の武士団の総長、
朝倉景鏡(かげあきら)という者が義景に切腹を迫ったのだった。
 
 義景の首は直ちに京へ送り、獄門に掛けさせた。
 朝倉景鏡ら一門衆、地侍達は、
信長に恭順の意を示そうと押し掛けたので、
本陣前はごった返した。

 信長は越前全土を平定した。
基本法令を定めると、
義景の旧家臣、前波吉継(まえばよしつぐ)を守護代に置き、
二十六日、信忠が守る北近江の虎御前山の城に凱旋した。

 織田氏発祥の地は越前織田荘で、
二百年前はその地の劔神社の神官であり、
荘官の立場にあった者だった。
 由縁深い越前を手にし、信長は尾張国津島神社と並び、
劔神社を織田家の氏神とした。


 




 
 

 
  
  
 
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