第75話 根切

文字数 1,342文字

 諸将が岐阜に集結した評定の日から遡ること数日前、
仙千代は信長から、「根切」という言葉を聞いていた。
比叡山焼き討ちを為した信長の口から放たれたその二文字は、
仙千代の脳髄に痺れをもたらすものだった。

 「……根切とは……
女子供も許さぬ……ということでしょうか」

 いつものように湯上りの信長の身を揉み解し、
手を休めることなく、仙千代は訊いた。
 仙千代が知る限り、
今回の作戦が殲滅戦であることを信長が明確に口にしたのは、
この時が初めてだった。
信長の中では既に決まっていたのだろうが、
言葉となって出すことはしていなかった。

 「再三再四、煮え湯を飲まされた怨念は、
多少のことでは決して晴れぬ。
上が自害すれば他は助かるなど、まったく有り得ぬ。
さすれば、あ奴らは代を継ぎ、挑みかかってくる。
既に長島は化外(けがい)の地。あの地を放置はできぬ」

 仙千代の育った鯏浦(うぐいうら)は河内長島が目前で、
長島に対し「化外の地」という言い方を、
万見の養父(ちち)も確かにしていた。
 各地で敗走した武将や兵の逃げ場となっている上、
後ろ暗い凶徒やひねくれ者が流れ寄り、住み着いて、
本願寺派の一寺院、願証寺を中核として結託し、
当地の領主や諸将を追い払い、
長島の城はじめ、領地を乗っ取り、
治外法権を敷くと、兵として犯罪者をも召し抱え、
栄華に溺れ、欲に埋もれた暮らしをしている。

 「もとはといえば殿が課した税の支払いを、
本願寺が拒んだところから始まった争いだとか」

 戦況、政務、組織など、尋ねれば、未熟な仙千代に、
信長は何でも噛み砕いて教え、
感情や心情も飾らず、包み隠さず表した。

 「御所の修理費用を供せと言ったら嫌じゃと申した」

 済んだことだと自分に言い聞かせるかのように、
信長は鼻先で笑った。

 「矢銭の請求に一度は応じたとお聞きします」

 うつ伏せの信長は気持ち良さそうに目を閉じている。
年齢こそ大きく違うが、
高い鼻梁の横顔などは信忠そっくりだった。

 「本願寺は浅井、朝倉、足利、武田、毛利、上杉らと組み、
戦を交えぬ時にも水面下で諜報を盛んに為しては、
我が軍に圧迫を加え、いつでも挙兵可能な態勢を取っていた。
宗教者でありながら、各地に僧兵を組織し、
天下布武の外に位置し、あろうことか対峙している。
二度目、三度目の矢銭要求は、応じるならそれで良し、
応じぬならば、それもまた良し。左様なことじゃ」

 信長の中では女子供まで一人残らず根切りにすることが、
もう決まっているのだと仙千代は知った。

 津島参りの帰りの船から見た母子猿が、
ふっと脳裏に浮かんだ。
 津島で一夜を過ごしたあと、岐阜への帰路、
仙千代が、川べりの山の木に猿の群れを見付けて、
母猿に抱かれた子猿を可愛いと騒いでいると、

 「仙千代の方が可愛い」

 と信忠が言った。
 甘い思い出もせつなく蘇るが、
根切にされる時、母はあの猿のように子を抱いて、
最後まで子だけは守ろうと足掻くのだろうと想像すると、
近ごろ信長が愛用している南蛮のサボンの香りが漂っているはずが、
酸鼻を極める死屍累々の場面が目に浮かび、
血肉の匂いを嗅いだような気がした。

 「仙千代」

 おそらく手が止まっていたのに違いなかった。

 「疲れたか?もう止めても良いぞ」

 信長はうつ伏せで横向きの顔のまま、
腕を伸ばして仙千代を引き寄せると口づけた。






 
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