第230話 鷺山殿と日根野弘就(5)

文字数 985文字

 「いえ、若殿、母は何でもありませぬ」

 いかにも 項垂れて(うなだれて)鷺山殿は涙まじりの声音をこぼした。

 「泣いておられるではありませぬか。
着物が濡れます」

 信忠が鷺山殿に懐紙を差し出した。

 「これを」

 頷き(うなづき)ながら受け取った鷺山殿は、
懐紙をそっと目尻に押し当てた。

 養母(はは)と息子のやりとりに信長も不器用に加わる。

 「うむ、泣いておる。
いかんな、これは。
突然泣き出すとは、何だ、あれか、
血の道とか申す、女子(おなご)のあれか」

 仙千代は「ちのみち」なるものを知らなかったが、
信忠、秀政、竹丸が、何かを辛抱しているような、
強張った顔を必死に作っているので、
仙千代も訳は分からず、同じように真似た。

 「殿、失礼でございましょう、
女子である私に人前で左様な」

 そうか、「ちのみち」というものは、
人前で口にしてはならぬものなのか……
ううむ、どんな道なのか、
後で竹に訊いてみよう……

 「我が(つま)を案じて言っておるのだ。
それを失礼とは」

 「私こそ、殿を案じておるのです。ううっ」

 鷺山度が扇子で一段と顔を覆う。

 「これ、斯様な時に泣くでない。
名物を愛でておった新春の寿ぎ(ことほぎ)の場であるぞ」

 「殿の御身を思えば寿いでもおられませぬ。
先の織部も桐箱の中で泣いておりましょう。
ただただ殿が御いたわしゅうございます」

 「織部まで泣くのか?
いやはや、流石に大袈裟」

 「大袈裟ではございませぬ。
日根野は武人中の武人。
この稲葉山時代も城下一の槍の使い手でありました。
子もまた然り。
一族打ち揃い、槍の名手が居並んでおります。
あの者達がまたも敵に回るかと思うと、
心乱れるのでございます。
流浪の日根野は次はどちらへ身を寄せるのか。
本願寺か。武田か。上杉も毛利も居ります。
あの槍が果てなく織田に向けられるかと思えば、
暗鬱な雲の重みに心耐えかねて、
涙が止まらぬのでございます。ううっ……」

 信長は途中から、
飽き飽きしている胸中を隠そうともしなかった。

 「ふん。結局それか」

 弱弱しい声音ながら鷺山殿も断固と続ける。

 「一方、日根野殿が殿の御家臣に加われば、
既に敵ではありませぬ、手を出しませぬ。
殿に歯向かうことも一切ないのでごさいます」

 信長は、脇息に身を預け、

 「さては泣き真似であったか。
女子の最終手段……とは、行かぬぞ」

 背を丸め、鷺山殿は身を震わせた。

 「ああ、泣き真似とは。酷うございます」

 声が裏返り、首を微かに振っている。




 
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