第403話 仏法僧の夜(2)織田、徳川の血

文字数 1,959文字

 明日、五月二十二日、
首級実検(くびじっけん)が予定されていた。
 この時期のことなので、
狩られた首を何日も置いてはおけない。
 
 信長や家康の本陣は高い場所にあったので、
実検場は、
志多羅を流れる連吾川沿いの緑陰に設営するべく、
竹丸は徳川の奉行衆に信長の名代で指示をした。

 総大将は信長、
しかしこの戦は、
あくまで徳川家のものなのだという信長の認識は、
終始一貫していた。
 これにより信長は、
実検場を築く人馬は、
当然三河が出すべきであると考えていた。
 
 信長が美濃から運び込ませた、
三万本の丸太を費やした陣城の三重柵は、
家康の腹心 石川数正を頭にして造られた。
 大戦を前に、
連合軍の圧倒的な財力を見せつけられて、
武田から寝返った東三河の地侍や百姓も、
力を合わせた。

 人足、牛馬の持ち出しは、
確かに負担が大きい。
 だが、何かもかも信長配下がやってしまったら、
三河は誰のものなのかということになる。
 信長は家康と互いに舅同士であり、
積年の同盟者でもあって、
今後も東の脅威に備え、
信長は家康の鉾に、
家康は信長の盾となるべく、
信長は三河に野心のないことを、
事あるごとに表出していた。

 首級実検は、
討ち取られた首が、
果たして本当にその者の戦功であるのか、
首が誰のものであるのかを見定める、
重要な詮議の場だった。
 同時、
特に大将級の死者に対して敬意を表し、
呪詛を受けぬよう礼を尽くして葬るという、
儀式的な側面を持っていた。
 竹丸はそれらの差配で、
茶臼山に戻ってきたのが日没間近の頃だった。

 帰陣して、
信長に報告を済ませた後、
具足を解き、
井戸端で身体を拭いていた竹丸に、
仙千代が純白の綿の手拭いを渡した。
 
 竹丸の従者も清潔な布を用意していたが、
竹丸は仙千代が差し出した方を受け取った。

 「何本持ってきておるのだ、
仙千代は手拭いを」

 仙千代は近習としての自分なりの心得で、
何があっても恥をかくことがないように、
真っ新な(まっさらな)麻布、綿布を、
旅だといえば、必ず十二分に用意していた。
 上質とされるものは高価だったが、
所詮、いわば消耗品であり、
このような卑近の例に限らず仙千代は、
禄はすべて主からの預かりものであり、
けして己の満足や享楽、
個人的蓄財に回すべきものではないと考えていた。

 「出立前、禄の全部を綿布に替えた」

 「禄の全部を?」

 「ああ、そうじゃ、
故にまだまだ新品が仰山あるんじゃ」

 「仙の禄で布を買ったら、
三河、尾張から綿が無くなるわ」

 「流石にそれは大袈裟だが、
当たらずも遠からず」

 もちろん冗談だった。

 「憎らしい奴だ、高給取りを鼻にかけ」

 と言う竹丸も、
仙千代とほぼ同等の禄高となっており、
仙千代は万見家当主をとうに抜き、
竹丸は父 長谷川与次を猛追する勢いで、
やはり禄高が増えていた。

 二人の年齢、経歴を量れば、
信長の贔屓は明らかだった。
かといって遠慮を見せれば、
主の機嫌が悪くなる上、
聞き入れられないことは歴然なのだから、
頂戴した俸給以上に働いて、
恩を返し、奉公するしか道はない。

 「徳川本陣は如何であった」

 仙千代は竹丸の背を拭きつつ続けた。

 「此度の合戦では織田、徳川両軍で、
およそ五、六千の兵が亡くなったという報告を、
先程、上様が受けられた。
中でも先鋒を務めた徳川軍の死者は、
織田軍よりも相当数、多いとも」

 「兵卒の損害はほぼそれで間違いない。
織田軍は大将級では無傷に終わった。
だが長篠城救援の、
一部隊を率いておられた松平主殿助殿が……」

 「もしや……御討死」

 「うむ。
退却する小山田昌行の返り討ちに遭われた由」

 家康と祖を同じくする松平家の武将、
松平主殿助伊忠(これただ)は祖母なる人が、
信長の叔母であると聞いたことがあった。

 「織田の亡き大殿の妹姫様の嫁ぎ先が、
三河安祥(あんあんじょう)松平家。
その三河の地での大合戦に、
大殿の御嫡子である上様が、
松平宗家の徳川様と力を合わせ、
長篠を奪還、三河を守られた。
まさに御縁が偲ばれる……」

 と仙千代は、竹丸の背を拭く手を休め、
目を閉じて、胸中で念仏を唱えた。

 長篠城救援に発つ前夜、
酒井忠次(ただつぐ)が信長に鳶ケ巣山(とびがすやま)急襲を献策し、
一喝された際、
忠次の隣に控えた伊忠は、
如何にも武名を馳せた働き盛りの将だけはあり、
忠次が怒声を浴びている間、
口惜しさを隠そうともせず、
拳を固く握り、
微かに打ち震えていた。

 「徳川陣で聞いたところでは、
有海原(あるみはら)での追撃で、
松平殿は激しく攻め込み、
よもや、
深入りし過ぎではないかという位置まで食い込んだとのこと。
心中、厳しい御覚悟がおありであったのであろうと、
徳川の陣で数多の(はなむけ)の言葉を耳にした」

 大勝利の合戦で、
大将としてただ一人、
命を落とした伊忠だった。
 であればこそ、
信長にも家康にも、深く心に刻まれ、
きっと今夜は伊忠の鳶ケ巣山での活躍譚が、
酒宴の主役になるだろうと仙千代は思った。

 


 

 


 

 



 

 

 

 
 

 

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