第370話 志多羅での軍議(4)信長の苛立ち

文字数 1,083文字

 「長篠の地勢に詳しい者は誰か」

 信長の問いに、空かさず忠次が、

 「豊田藤助(とうすけ)なる者が、
長篠城を二里、南へ下った吉川を、
代々、郷としております」

 信長の反応を待たず、
家康の顔色のみで徳川の配下が動き、
豊田藤助を呼びに出た。

 「長篠城を救出すると同時、
武田を是が非でも陣城に呼び込む……
難問中の難問でございまするな……」

 と眉根を寄せた佐々成政の呟きに、
同席諸将の共鳴が静かに広がった。

 信長としては、
徳川の武田に対する戦略資金として、
莫大な黄金を与え、
家康の救援に応えて今回も美濃から出征し、
長大な陣城まで築いてみせたのだから、
同盟者としての後詰の義理は、
既に果たしていると言えた。

 しかし、本来長篠は、
一年の籠城に耐えられる備えであったことを思えば、
兵糧庫焼失は手痛い打撃で、
それ故に、
負け戦を未だ知らない勝頼の勝気の逸り(はやり)を逆手にとって、
武田の名立たる烈将を一網打尽に粉砕する道を、
信長はむしろ望んだ。
 
 家康にとっては、
ここで合戦に持ち込んで勝利を収め、
本領地である三河の支配を盤石にしなければ、
浜松城の孤立を招き、
巨大な甲斐、信濃に加え、
東三河まで手強い武田を背負うことになり、
形式上とはいえ織田の同盟者である徳川の地位は、
脆弱そのものになって、
織田家の一部に成り下がってしまう。
 家康こそ、背水の陣だった。
信長が後ろに控えてくれている今回、
勝頼を叩きのめさねば、
次の好機の到来は無いと考えるべき苦境にあった。

 「遅い。何故呼んでおかぬ!」

 遅いというのは、
むろん豊田藤助を指している。
 信長の眉間の皴が深まって、
怒声が飛んだ。

 上様の仰り様は尤もだ……
三河の方々は、尾張に比べ、
幾らか悠長であられる……
とはいえ、今のお怒り様は、半ば芝居、
上様は三河勢を気が利かぬと言ってお叱りになることで、
場を引き締められた……

 信長が苛立っているのは本当で、
ただ、その理由(わけ)は、
豊田藤助を待ちわびる思いからだと仙千代には知れた。

 豊田なる者、
上様の関心に応えることが出来るのか、否か……

 仙千代も長篠の郷士である藤助を、
心待ちにした。

 家康の顔を読み、
藤助をまたも一人が呼びに走った。

 「先程来、
強い雷雨となっておりますれば、
お待たせ致し、」

 榊原康政が詫びを入れると、

 「やかましい!」

 と信長が一段と叱責を加えた。
康政としては儀礼上、低頭せざるを得ず、
信長は信長で激しい雷鳴、雨音は聴こえている。
 だがそれは、
信長の心胆からの怒気を表してはいなかった。
 信長が真に怒ったならばこれでは済まない。

 仙千代は信長の汗を見て、風を送った。

 信長が鎮まって、誰もが倣って黙した。



 
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