第299話 京の南(2)

文字数 1,074文字

 翌日、信長は自ら指揮をして、
遠里小野(おりおの)の陣一帯の農作物を薙いだ(ないだ)
 指揮をするどころか、
時に信長自らが、下層の兵に混じって、
作物も草木(そうぼく)も刈った。
 齢 四十を超え、十万の軍を率いる総大将が、
足軽や中間(ちゅうげん)といった下々に混じり、
鎌を手にそのような下働きに精を出すとは、
ついぞ、見たことも聞いたこともなく、
信長がそのようなことであるのなら、
近侍である仙千代、竹丸、
勝九郎らも鋸鎌(のこぎりがま)や草刈鎌で参じ、
皆で競って働いた。
 この時期であるならば、
例えば麦は収穫が近く、
それを思うと胸が痛まないわけではないが、
織田軍だけがしているのではなく、
何百年と続いた戦支度であって、
戦後、遺体となった兵が身に着けていた鎧兜や金品を、
農民が奪うことも一方で、認められていた。

 「仙は手際が良いの!」

 勝九郎が驚嘆の声を上げた。

 「幼き頃、ようやったんじゃ、下男達と。
勝九郎は、せなんだのか?」

 「武術の稽古はつけられたが、
斯様なことは儂は今日が初めてじゃ」

 信長の連枝衆同然である池田家の嫡男なのだから、
考えてみれば当然で、
百姓仕事の真似などは、
生涯初であってもおかしくなかった。

 「上様も上様で凄まじき勢いで刈っておられるが、
上様は面白き御方じゃのう。
差配さえなされば済むものを、御自ら、あのように」

 竹丸が加わった。

 「それこそ上様は、
御自身の御立場を思慮なさっておいでなのであろう。
既に上様は宰相であらせられる。
長島征圧戦で本願寺の勢力を大きく削いだ今、
あとは三好康長、武田勝頼が眼前の敵。
次いで仮想敵として毛利輝元、
上杉謙信らが控えておるが、
毛利も上杉も京には遠く、現況、上洛は到底困難と見る。
然らば(しからば)、これほどの軍勢で戦うことに、
わき立っておられるのだ。
おそらく上様は、今、この一日一日が、
面白くてならぬのでいらっしゃる……」

 仙千代の鎌さばきに感心していた勝九郎が、
今度は竹丸の解説に感嘆した。

 「なるほど!
つまり、今後ますます冠位が上がられ、
かつての足利将軍と並ぶ、
いや、それ以上の地位に上り詰められる先を見越し、
一戦一戦を御身にも御心にも刻んでおられると、
左様なことなのだな」

 竹丸と勝九郎の話を仙千代こそ、
胸に刻んでいた。

 そうだ、上様が天下を統べて、
征夷大将軍、関白、太政大臣となられる日も、
いずれ遠からず……
野山を駆け巡り、甲冑を枕になさる日々が、
あとどれほど残されているのか、
三年か、四年か、いや、二年なのか……
上様が天下布武の大志を抱いて以来のこの歳月(としつき)
誉れの高みがいよいよ視界に入ってきたのだ……

 主君の艱難辛苦の道を思い、
仙千代の鎌を握る手に力が入った。




 
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