第90話 奴野城

文字数 1,276文字

 仙千代にとり、美濃から津島への道程は、
懐かしくも、せつなく映る。
 目の前の現実は、長島攻めの織田軍が、
尾張、美濃、伊勢、志摩など各地から集結し、
水軍含め、総勢で十二万規模に膨れ上がる大軍勢で、
海上から攻め上がる大砲を備えた船の準備も万全という、
信長が「根切」を諸将に命じた殲滅戦だった。

 明日、明後日には、
もしや儂も人を斬っているんだろうか、
たとえ幼子を抱いた母であっても、
殿は根切にせよと仰っている……

 傍目には信長に付き従ってよく立ち働いている仙千代だったが、
心中(しんちゅう)は種々に乱れた。

 前回の津島での思い出も走馬灯のように脳裏を駆ける。

 二年前、同じ旅程を下った時は信忠が横に居て、
もうすぐ津島湊に着くという頃、
舟が大きく揺れて仙千代の身体が傾くと、
顏が間近になった信忠が仙千代の背に手を回し、

 「舟がずっと揺れていてくれないかな」

 と言った。
 
 それが信忠の恋慕の情の発露だとその時は気付かずいたが、
津島の堀田邸で、二人きりの時は名を呼べと命じられ、
必死の思いで、

 「勘九郎様!」

 と叫ぶと一気に手繰り寄せられ、強く抱かれた。
 その時の骨の髄まで痺れるような強烈な官能は今も忘れられず、
どれほど信長と夜を重ねようとも、
あの一瞬ほどの陶酔は未だ知らない。

 津島での初日は奴野城(ぬのやじょう)が陣となった。

 二年前の初夏、鷺山殿の津島参りの伴をする格好で、
信忠はじめ、小姓達が堀田邸に泊まった時、
仙千代は口づけを受けている最中に眠りに落ちてしまった。

 馬鹿だな、あの日、朝まで寝てしまった……
生涯一度だけの夜になるとも知らず、
寝込んでしまって……

 数えの十三だった幼い自分を思い出し、
呆れるような、笑いたいような、悲しいような、
何とも言えない気持ちになる。

 あの一夜、もし夢が叶っていたのなら、
未練に苦しまず済んだのか……
いや、逆に、未練が募っていっそう悶え苦しんだのか……

 城の湯殿では信長も信忠も一緒だったので、
仙千代、竹丸、三郎、清三郎も居合わせた。

 仙千代は信忠を視界に入れないようにした。
この二年間、ほんの数回、このような機会があって、
信忠の背丈が信長に近付きつつあることは常から気付いていたが、
よく鍛えられた裸体は、
これから絶頂を迎えようという若さが瑞々しさを湛え、
本当に美しかった。
 仙千代が近くに侍っていた時の信忠は少年の面影が濃く、
時に女人のように優し気な面立ちだった。
今では凛々しい若武者で、
仙千代でなくとも惚れ惚れするような華やかな放射に包まれている。

 清三郎が無言で甲斐甲斐しく信忠の身体を洗い、
三郎は専ら、信忠と、長島近辺の地勢について会話していた。
せっかくの湯あみの時に戦の話では生臭く、
かといって食べ物や景色について話せば、いかにも気が緩んでいる。
話題を地形に選ぶ三郎は、いつしか身も引き締まり、
信忠の最側近にふさわしい小姓になりつつあるように思われた。

 信長は信忠と三郎の話を小耳に挟みつつ、
例によって仙千代と竹丸に肩や腕、腰を解され、
良い気分で目を閉じている。

 湯あみが済めば、父子は二手に分かれた。
小姓達も同様だった。

 




 

 

 

 

 







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