第298話 京の南(1)

文字数 1,672文字

 京を発って六日が経った卯月の十二日、
信長は住吉へ陣を移し、翌日は天王寺へ馬を進めた。
 三好康長及び石山本願寺討伐戦は、
畿内、若狭、近江、美濃、尾張、伊勢、丹後、
播磨の軍勢が残らず参陣した上、
本願寺を快く思わない、
紀伊国 根来寺(ねごろじ)の僧による鉄砲隊と僧兵一万も参集し、
天王寺、住吉、遠里小野(おりおの)一帯に陣が布かれた。

 十四日になると石山本願寺へ進撃し、
辺りの農作物をことごとく薙ぎ払った。
 これにより、本願寺の兵糧と収入を絶ち、
あまつさえ、
本願寺の地元民に対する求心力を減ずることが可能になる。

 軍勢の数は十万余を超えた。
見聞した都鄙(とひ)、上下の誰もが瞠った(みはった)のは当然のこと、
途中、表敬して隊列を迎えた各地の有力者や貴族も、
信長自らの出征に驚きを隠さなかった。
 これだけの兵力であれば、
今や天下人とも言える信長は京に居て、
佐久間信盛か柴田勝家に、
実戦の指揮を任せても良かったのかもしれないが、
信長の腹積もりとしては、
巨軍であるからこそ、
指揮を執る者には威厳がなくてはならず、
また、在京し、じっと戦況報告を待つなど、
戦の場に常に身を置いてきた信長に出来ることでもなかった。

 仙千代は、信忠からの報で、
三河で武田勝頼が、
不穏な動きを強めていることを知り、
不安を抱いたが、信長は、
その為にあれだけの街道整備をしたのだと言って、
まず今は南方を平定することに注力すると話した。

 「昨年夏、武田が高天神城を攻めた時には、
梅雨時の悪路が絡んで、
徳川の援軍に間に合わず、城を渡してしまった。
武田は此度も織田が本願寺にかかりきりになって、
三河へ来るはずもないと踏んでおるであろう。
だが、急な坂を平坦にし、大岩を退かし、
橋を架け、山を拓いて迂回路を造った。
畿内から岐阜へ労無く帰還することが可能になった。
勝頼はそれを知らぬ」

 陣の褥で暖を取るかのように仙千代を抱き、
信長は一気に語った。

 「確かに武田は手強い。
東国武士は馬の扱いもたいしたものだ。
だが儂も二の舞いはせぬ。
徳川が落ちれば三河は武田のものになる。
それだけはさせぬ。
三河には海がある。
海を手にすれば武田は力を増す。
そうなる前に叩かねばならん。
三河への出陣を間に合わす為にも、
この平定戦を決着させねばならぬのだ」

 「上様が今、こうして畿内に居られることで、
武田は気を緩めておるやもしれぬ……
左様にお考えでいらっしゃるのですね」

 信長の手は仙千代の背を撫で続けている。
仙千代も信長の脚の間に肢を挿し入れた。

 三好康長と石山本願寺を目の前の敵としつつ、
既に信長の頭には武田勝頼との戦が描かれていた。
 故に、十万以上という大軍をこの地に集め、
康長との戦いに臨んでいる。

 「仙千代なら、この後どうする」

 信忠からの報告では、
武田軍は二万に満たないどころか、
一万五千にすら届いていないのではないかということだった。

 武田軍は本来、
三万以上の兵力を擁しているはず……
武田は未だ、真の本気を見せていない……
領土を最大にしている現在、慢心し、
しかも、上様が畿内に居られる故に油断している……

 「上様は三好と本願寺の征伐で、
まだ暫し(しばし)、こちらに居られます。
武田は既に足助(あすけ)に侵攻し、
長篠、吉田といった徳川方の城を落とさんとしておるようですが、
二城とも堅牢にて、直ちには落ちますまい。
上様が仰せの通り、
まずはこの十万という大軍で、
疾風迅雷(しっぷうじんらい)に南方戦で勝利を収め、
武田が城を攻めあぐねている隙に、
美濃へ戻って次なる戦準備を万端整え、
三河へ進撃されるが常套かと存じます」

 徳川は兵を最大用意できても一万に届かず、
信長に援護を求めてくることは必定だった。

 信長は何も答えなかった。
ただ、急に、仙千代の身を仰向けにし、
両の手で、やはり仙千代の両肩をぐっと押さえると、
見下ろしながら、

 「面白うない。面白うないぞ。
仙はまったく面白うない。
せっかく二人、こうしておるのに無粋な話を。
その清らかな口で、
つまらぬことを言うは許さぬ。
今宵、戦の話など、もう、しとうない……」

 と言い、仙千代の熱を求めた。
 仙千代は、
信長が仙千代の判断に満足したのだと知った。




 






 

 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み