第102話 五明の夕 憧れ

文字数 1,394文字

 「若殿にお見せしたいものがあるのです。
この征伐が終わったら」

 信忠の耳元に囁き掛ける。

 「今は言えぬのか?それが何であるのか」

 「何だと思われますか?」

 夜陰に瞳が悪戯っぽく煌めいている。

 「清がくれるものなら何でも嬉しい。
むしろ何故、左様なことを?」

 清三郎は信忠の首筋に顔を軽く埋め、
腕や肩をそっと撫でている。
 信忠は清三郎を抱いていた。

 「先般、三方ヶ原にて、
長谷川橋介様達と討ち死に奉った兄の三十郎と私は、
兄弟の中で特に親しく、
二人して、お侍になることが夢だったのです。
兄は商人の身分のままでした。
なれど、この清三郎は、若殿が夢を叶えてくださった」

 強敵、武田と、織田家の同盟である徳川の衝突が予想される中、
町人である三十郎は清須へ帰れと、
竹丸の叔父達から強く進言されても受け容れず、
若き日の信長の小姓衆と共に三十郎は三方ヶ原の野に散った。

 「何故、それほど侍になりたがる」

 寡黙な清三郎がこの夜は、よく話した。

 「もとはといえば、
若殿の御尊祖父様であらせられる亡き信秀公に、
我が祖父が心酔しておったのです。
信秀公の甲冑は、すべて、我が祖父によるものでした。
祖父に付き従って御城へ父が出入りさせていただき、
次は、父に付いて兄達や私が……。
此度、私が侍として出陣することを父は大変喜びました。
父の憧れでもあったのです。お侍になることが。
玉越の家は武具甲冑を商うだけでなく、一から作っております。
もちろん、我が家の男子は皆、武術も鍛錬致します。
さすれば自然、心意気だけは御武家様に近付きます。
なれど、御武家の皆様は近くて遠い方々でした」

 一日でいい、いや、半日でもいい、
織田家の嫡男という立場を離れ、
過ごしてみたいと切望した幼い日々が信忠にはあった。
 津島参りに行く日の船着き場で、仙千代は、
信忠が彦七郎の着物と取り替えたなら、
町を好きなように出歩くことができると冗談で言い、
信忠もその想像だけで胸が躍った。
織田の名を外れた自分が、枠や近習の目を気にすることなく、
たったひと時でも自由を手にしたのなら、
何処で何をしよう、その時の自分は何をどう感じるのだろうと、
一瞬たりとも叶えられはしない夢を見た。

 誰もが生まれ落ちた宿命を懸命に生きる……
だが、清三郎の運命の変転に手を貸したのは確かに儂だ……

 死と隣り合わせの武家の身分に清三郎を上げたのは、
他でもない、この自分だと信忠は思い、
清三郎への庇護心をいっそう強くした。

 「御武家様は憧れだった……夢が夢でなくなった……」

 「岐阜で見せてくれるという何やらは、その礼と申すか」

 「それだけではございませぬ、理由(わけ)は……」

 「他にどのような?」

 言葉では返さず、清三郎が口づけてきた。

 「これが答えでございます」

 にこっと笑った口元が美しかった。

 当初、孤独を埋める為、
仙千代に似た清三郎を召し上げたに過ぎなかった。
どれほど慕われようと、慕われたからと万度(ばんたび)応じはしない。
清三郎は職人気質で振る舞いが何かと無器用だったが、
その純朴は信忠に安息を与えた。

 「岐阜へ帰るのが楽しみだ。何を企んでおるのやら」

 「企みではございませぬ。左様な、人聞きの悪い……」

 「愛い奴じゃ……ずっと傍に居れば良い……
儂の傍に……」

 身を離した清三郎が団扇で風を送るのか、
信忠は心地よく眠りに落ちていった。
意識が深く沈むまで、涼やかな風は止まらなかった。





 


 

 

 


 
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