第271話 潮の香

文字数 1,586文字

 仙千代の背に柔らかな感触が優しく下りてゆき、
腰と双丘の間の二つの窪み(くぼみ)に達すると、
動きが止まり、そこに熱い吐息を感じた。

 ここは何処なのか……
 ああ、波頭が輝いて……
海なのか……津島の海だ……
皆で泳いで、草臥れて(くたびれて)、眠ってしまって……
 隣に若殿が……勘九郎様が……
背中に感じた唇は勘九郎様……

 砂浜でうつ伏せで眠っている仙千代に、
信忠の視線が落とされていた。

 二人きりの時はその名で呼べと仰った……
勘九郎様!
 お慕いしているのです、ずっと……

 微睡(まどまどろみ)は甘く、夢の世界を彷徨って(さまよって)いる。

 勘九郎様、
名を呼んでくださいませ、
この夢の中だけでもいい、
仙千代と、名を呼んで……
それだけでも嬉しいのです、
名を呼んでいただけたなら、それだけで……

 「仙千代」

 「ああ……」

 「仙」

 「あ!……」

 声の主は信長だった。
 夜着のまま、掻巻の中で背後から抱かれていた。

 夢だったのか……
夢の中でも夢を見ていた……

 もしや信忠の名を口にしていたのではないかと仙千代は、
心の臓がどくんとした。

 信長が、

 「どのような夢を見ておったのだ。
魘される(うなされる)でもないが、
喘ぐとも溜息ともつかぬ声を出して」

 と、仙千代に脚を絡め、抱きすくめた。

 「はい……」

 「それでは分からぬ……」

 信長の息が首筋に吹きかかる。

 「……御方様(おかたさま)の津島詣でに、
小姓達が連れていっていただいた時、
海で競い合って泳いだのです。
泳ぎ疲れて浜でうたた寝してしまった思い出を夢で……」

 信長の抱擁は続いた。

 「ずいぶん昔の話だ。
仙千代が岐阜へやって来て暫くした頃……
確か若殿の初陣必勝を、
於濃が津島神社に祈願したいと申して……
儂はあの時もこの地に居ったように記憶しておる……」

 三年前、信長が上洛中に鷺山殿(さぎやまどの)が、
信忠や小姓達と共に、
織田家の氏神と仰ぐ津島天王社への旅に、
一泊で出掛け、仙千代は生涯忘れ得ぬ幸福を味わった。
 信忠と二人きりの夜だったのに、
幼い仙千代は旅の疲労で睡魔に襲われ、
何もなく過ぎて、
朝に起こされ、目覚めた時、ただ一度、
唇と唇の間に空気を挟んでいるかのような口づけを受け、
喜びに舞い上がり、酔った。
 その一晩が、仙千代には今も尚、
最も貴く、美しい一夜(ひとよ)なのだった。

 信忠の声が聴こえる。

 願いは仙千代が幸せになることだ、
殿に尽くして愛されて、幸せになれ……

 仙千代は十三だった。
信忠は信重という名で、十五才だった。
 別れを告げるその言葉に納得した仙千代ではなかったが、
信忠の書き損じの手紙(ふみ)を盗んだと責められて、
美しかったはずの初恋は壊れて消えた。

 「よほど楽しかったのだとみえる」

 信長は軽く抱きすくめたまま、
仙千代の身体の其処彼処(そこかしこ)に手足、唇で触れる。

 「それはもう……」

 「仙千代は海が好きなのだな」

 「海辺育ちですゆえ……」

 「うむ……ふと潮の香がするような……」

 信長の愛撫に性急さはなかった。
 仙千代は目を閉じたまま、
この褥に入るまでの記憶を辿った。

 今川氏真(うじざね)を招いての茶事の間、
秀政、仙千代、竹丸ら、若い側近は、
必要でなければ隣室に控えていた。
 話し声はよく届いていた。

 いったん休憩の中立(なかだち)となり、

 「本日の主菓子(おもがし)小豆(あずき)がふんだんに使われ、
結構なものでございました。
小豆は邪気を祓い、
厄除けの力を持つと言われております。
良き日にふさわしい縁起物、
まこと嬉しゅうございました」

 と話す氏真が、
今川軍の大勝利に終わった小豆坂合戦を想起させる羊羹に気付いたことを
仙千代らは知った。

 それに対する信長の反応は鈍く、
ここから姿は見えないものの、
おそらく頷いた(うなづいた)ぐらいのことだと思われた。
 桃の花の形に整えられた羊羹を用意したのだが、
信長に茶菓子については何も話さなかった。
 織田軍殲滅の小豆坂の戦を思い起こさせる由縁の菓子だとは
信長は知らない方が良いに決まっていた。
 氏真が勘付いて、歓待の意を斟酌するなら、
それで用は事足りた。




 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み