第351話 岡崎城(3)信康

文字数 1,627文字

 家康に付いていた嫡男の信康は、
信忠にとり、義弟にあたった。
 信康は同母妹(いもうと)の徳と同齢で、
聞けば、夫婦には、
目出度い(めでたい)ことに来年に子が生まれるという。
 信長、家康、二人にとって、
初めての孫だった。

 顔立ち、体躯、物腰だけならば、
今もって十分に青い信康が、
義兄(あに)である自分より先に父となるのかと思うと、
微笑ましさと共に、妬けるではないが、
少しばかり羨ましさも湧いた。
 
 元亀四年、
恩ある信長を逆恨みして増長し、
反旗を翻したはいいが、
敗北を喫した足利義昭は、
信長が情けをみせて将軍職に遺留したものを突っぱねた。
 その上で、
しきりに織田包囲を画策し、
義昭の讒言(ざんげん)に乗った武田信玄が、
信忠と松姫の婚姻同盟を解消し、
信長との対決姿勢に舵をきった。
 信長の怨敵 石山本願寺 顕如と信玄は、
閨閥で結ばれており、
義昭の織田包囲網に対し、
確かに親和性を持っていた。
 やがて信玄は西上作戦を取り、
三方ヶ原で織田の縁戚である徳川を敗走させた。
 もし信玄が義昭の甘言を相手とせず、
領国経営に力を傾注していたのなら、
今頃もしや、自分と松姫も子を為して、
勝頼を兄と呼んでいたのかもしれないという無念が、
信忠にはあった。
 三方ヶ原で勝ちを収めたは良いが、
程無くして他界した信玄、
信長に敗北を認める日も遠からずという情勢の顕如、
落ちのびて乞食将軍と揶揄されている義昭ら、
わずか数年前の戦国の世の主役の何人もが、
没するか、命運が尽きようとしている実勢に、
信忠の背筋は冷えた。

 この世に確かなものなど何もない……
戦国の世なれば尚のこと……
ただ、今日が限りと思って生きる、
それだけだ、
儂も上様も、誰も、皆……

 これらを想起したのは実は刹那で、
兵器、兵糧の検分が済んだところで、
一行が本丸に向かう最中、
信忠は信康にしきりに話し掛けられていた。
 過去数度、挨拶を交わした程度の間柄で、
別段、慕われていると思っていないが、
どうやら快活な信康は、
徳の実兄である信忠に気を使い、
明日以降、赴くことになる東三河の地勢や、
この城郭について、
話題を途切れさせることなく、語った。

 信忠は聞き役に徹しながらも、
非礼にならぬよう、応じていた。

 「軍議が無事、済みましたならば、
どうぞ、徳に会ってやってください。
此度の上様、出羽介(でわのすけ)様の御来城、
(つま)は、腹の稚児(ややこ)も会いたがっておる、
まさに僥倖、奇遇だと申し、
戦支度で御目見えなさるのだと注意を与えても、
やはり父君、兄君に御目通りが叶えばと、
待ち遠しくてならぬ様子なのです」

 徳は誰に似たのか、
おそらく父か、
気性のしっかりした姫だと見受けたが、
どうやら図星であったのか、
信康の言葉の端々に徳との睦まじさと共に、
どうも頭の上がらない雰囲気も混じっていないではなかった。

 「当然、我ら父子、姫には会いましょう。
三河と美濃はけして短くない道程ゆえ、
今日のこの日は生涯で幾度とない機会」

 信康はいかにもという安心を見せた。

 「何か?」

 信忠は訊いた。

 「いや……上様は、
厳格な御方とお聞きしております故、
此度は姫に会っていただけぬかと」

 信忠は内心、可笑しかった。
父 信長は、いったい諸国でどのような評判、
いや、悪評の人物となっているのか。
 我が娘の嫁いだ城へやって来て、
顔も見ぬなど有り得はしない。
 確かに父は唯我独尊、我道邁進の男だが、
けして情が薄いわけではなかった。

 口の端に徳姫の徳の字も出さないものの、
初めての娘で、手元に九歳まで置いて、
幼くして徳川家に出した長女を、
父が忘れていることは決してなかった。

 「上様にとり、稚児は初めての孫。
安産を願う親心は誰も同じでしょう」

 「はっ!上様、出羽介様の、
御時間を拝借致すことになりまするが、
姫はまこと、喜びましょう。安堵致しました」

 今や徳川にとって主家といっても良い、
織田からの嫁を貰った信康の気遣い、
いや、気苦労が垣間見られ、
信康の実母が今川義元の姪であることを思うと、
若い二人の行く末に幸あれと、
信忠はただ、願った。




 

 


 



 


 






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