第386話 志多羅の戦い(5)白煙

文字数 800文字

 天正三年五月二十一日、
辰の刻、東の空に煙が昇った。

 「鳶ケ巣山(とびがすやま)砦が!」

 と信忠の脇で長篠を指した信雄(のぶかつ)は、
酒井忠次(ただつぐ)を総大将とする奇襲隊が、
鳶ケ巣山砦の兵糧庫に火を放ったことを、
歓喜の叫びで告げた。

 食糧を失えば戦は出来ぬ……
手堅く直ちに退却するか、
一か八か、軍を進め、
決戦を挑むしか道はない……
勝頼はどちらを選ぶ……

 信忠は、
勝頼が決戦に向かうと見ていた。
 日根野弘就(ひろなり)によれば、
武田家内の空気は「怪異」であるという。
 滅ぼされた敵軍の娘が勝頼の母であり、
そのような身分の者を、
栄えある武田家の側室にするなど、
あってはならぬと、
城中に異論が噴出していたところ、
信玄が押し切って諏訪御前を妾に迎えた。
 時の運で世子となった勝頼だったが、
蔑まれて育ち、
今もって、
先代からの重臣達から低く見られ、
地位を固める必要に迫られている。
 昨年、長島一向一揆を征圧し、
本願寺の力を削いだ信長は、
日に日に武力、財力を伸長させている。
ここで叩いておかなければ、
後になるほど武田の分は悪くなる。
 家康は家康で、
信玄が奪った長篠城を、
調略で奪い返していて、
油断がならない。

 志多羅の原に勝頼が打って出て、
織田の大軍を目の当たりにしようとも、
時すでに遅し、
信濃への北も東も狭窄で、
退却しようにも、
軍勢は行き止まりになる……
逃げ場を失い、
西や南に突っ込めば、
陣城に阻まれた挙句、
数多の鉄砲玉を蜂の巣のように浴びる……
志多羅に勝頼が姿を見せれば、
勝負はそこでほぼ決まる……

 鳶ケ巣山砦から流れ来る白煙の下で、
どのような合戦絵図が描かれているのか、
信忠は冷えた心で想起した。

 「風向きでしょうか、
霧が濃くなってきました」

 信雄が言うように、
霧が立ち込め、陣城を覆った。

 信忠が、

 「上様はつくづく武運に恵まれた御方。
この日に限って雨雲が遠のき、
昨夜の雨のせいで濃霧となるとは」

 と応じると、信雄が、

 「はい」

 と、口元を引き締めた。


 
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