第64話 遠征の日々

文字数 1,967文字

 新年十九日、
越前の守護代が国の諸侍に攻められ自害したとの報告が、
岐阜に届いた。
 これを機に一揆衆が蜂起して、
国境に要害を築き、越前と他国との行き来を封じた。
 火を見るよりも明らかに、背後には石山本願寺の顕如が居た。
 
 越前は昨年、
信長が朝倉義景を討ったことで平定が成ったばかりであるのに、
今度は一揆勢が支配する国になってしまった。
 信長は羽柴秀吉、丹羽長秀らに軍勢を率いさせ、
敦賀へ派遣した。
 顕如は、表面上は信長と和睦の態を見せつつも、
水面下では各地で一揆衆を煽動し、
あくまで信長との対決姿勢を崩さなかった。

 東では、信玄亡き後、その子、武田四郎勝頼が、
西へ攻め寄せていた。
 二十七日、武田勢が明智の城を包囲したとの報せが入り、
如月の一日、信長は尾張衆、美濃衆を出動させた。

 同月五日、信長、信忠父子が出馬し、御嵩に陣を張った。
翌日、高野へ進み、陣を据えた。

 七日に武田勢を攻めるはずだったが、
地勢険しい難所であった為、双方動きが取れず、

 「他の山々へ移動して攻撃せよ」

 と信長が命じているところへ明智城に武田への内応者が出て、
城は直ちに落ちて、織田軍はもう手の打ちようがなかった。

 信長父子は高野に城普請を命じ、小里には城を築くと、
出陣して十九日後の二十四日、岐阜へ帰還した。

 神仏を軽んじる信長許すまじという旗印を掲げる、
石山本願寺の顕如、
顕如の縁戚にして、父、信玄譲りの戦上手として、
今や武勇を認めざるを得ない武田勝頼は、
あくまで信長包囲の手を緩めなかった。

 仙千代も明智城救出の遠征に従軍していた。
今では信長の行くところ、すべてに付き従っている。
 
 足軽や小者(こもの)中間(ちゅうげん)は、青天井で草を枕にして眠るか、
せいぜい応急仕立ての小屋掛け泊まりだが、
総大将や大将は、
街道筋であれば概ね(おおむね)各地の城や伽藍に泊まる。
偶さか(たまさか)野営があるが、先遣隊が陣屋を建てて待っている。
そのような意味では小姓は恵まれている。
 ただ、遠征先では、常の務め以外にも多くの仕事が加わって、
張り詰めた神経の糸を緩めることは許されなかった。
 しかも信長は、行動を先んじて読むことが難しい人物である上、
せっかちだった。
仙千代は怒鳴られたことがないが、
信長はたいそうな重臣であっても声を荒げることがあり、
苛立ちが積もることがないように仙千代は気を使った。

 小姓の仕事の特異な点は臥所(ふしど)の務めで、
戦地でも普段通り、交互に不寝番をやり、
要望があれば、殿の褥に入る。
 君主といえども、人事の均衡や、人心、人目があって、
誰彼なく手付きにするわけにいかず、
褥に召し寄せる小姓は決まっている。
 すると、その役を担う小姓は、
「箔」が付くという幸運を得もするが、
働きが悪ければ主の顔に泥を塗ることになる。
すると自然、否が応でも、
独楽鼠(こまねずみ)のように立ち働くことになる。
 例えば、奉行として、
信長の非常な信頼を得ている堀秀政も、
たった数年前には今の仙千代や竹丸のような立場にあって、
夜討ち朝駆けで働き通していたに違いなかった。
 
 小姓の中には大名家の子息も居て、
そのような者達は小姓でありながら城近くに屋敷を借りて、
臣下と共に住み、城へ通いで来る者も居る。
大名や重臣の息子が少なくない顔触れの中で、
何の後ろ盾もない仙千代の置かれた立場を思い、
信長があからさまという程に重用してくれていることを、
仙千代は理解していた。

 殿の寵愛を無にしてはならない……
殿に恥をかかせてはならない……
何よりも、若殿への未練を知られてはならない……

 信長の感情の振れ幅を思うと、
畏怖する思いに微かな恐怖心が混ざらないわけではないが、
仙千代に純な目を向けて濃やかに接する信長の情けは、
ただ有り難いと思い、感謝の念を強くするのみだった。

 また一方で、従軍となれば、信長の指令を伝えにいって、
信忠の返答を預かって戻るなど、父子の間の用務をこなしたり、
生活の場が重なっていることで、
信忠と接する機会は城に居る時よりも格段に多かった。
単に所用を取り交わすだけであっても仙千代は嬉しく、
戦闘の真の厳しさを未だ知らないせいもあり、
遠征をけして嫌ではなかった。

 そういえば、松姫様はどうされているのか……
信玄公亡き後は兄君が織田家を攻め上げている……
嫁がれたという話は聞かない……
若殿の御性格上、松姫様を案じておられるに違いない、
どのようにすれば松姫様をお救いできるか、
若殿は、きっと悩まれている……

 織田家が勝利しなければ、
信忠と松姫が見舞えることはまず、有り得ない。
武田が滅し、織田家が残れば、二人にまだ希望はある。

 信忠の胸中を思い遣り、
今では嫉妬より、切なさに寄り添う気持ちが強かった。
とはいえ、
手紙(ふみ)さえ禁じられた二人の現況があるからで、
もし信忠と松姫が邂逅するともなれば、
とても正気を保っていられないことを、仙千代は知っていた。
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