第189話 月影(3)

文字数 1,375文字

 城に帰って入浴した後は小袖だけを着て、
袴は履いていなかった。
 仙千代の着物はさらっと脱がされて、
上半身が露わになった。

 背の傷は包帯こそ取れたものの、
未だ腫れを残し、鈍痛が続いていた。
 そこに視線を感じて程無く、ふわっと唇が触れた。

「斯様に大きな傷を負って……」

 小木江城の井戸端で白刃を交えた一揆の若者の姿が蘇る。
あの目は仙千代を憎んでいた。
戦の最中でありながら身綺麗にして、
飲み食いに困らず、血色も良い。
 一方、若者の同胞(はらから)は雨露でようよう渇きを癒やし、
念仏で腹を満たす。
 飢餓と憎悪の苦しみを具現したなら、
このようになるのだろうと、そんな形相様相の若者だった。

 座した仙千代を、
やはり座した信長が後ろから抱く。
信長の手が仙千代の褌の隙間から茎に伸び、弄る。

 「あの時は生きた心地がしなかった……
独りになってはならぬと言い付けておいたに、
仙は言い付けを守らず……」

 快感に身を委ね始めた仙千代は、
またも一揆の若者を虚空に見たような気がし、
自分と似た年頃のあの若者は、
このような夜を過ごしたことがあるのだろうか、
誰か好きな女子(おなご)でも居て、
その唇に触れたことがあるのだろうか、
苦界を脱し、果たして浄土へ辿り着いただろうかと、
錯綜し、混乱した。

 「どうした、仙千代。燃えぬのか?」

 欲望の炎を燃え盛らせようとしない仙千代に、
睦言混じりに囁いてくる。

 「鼠は馬鹿ではない、逃げる術を知っている、
途方もなく増え、害を及ぼす……
左様なことを申した我が身の小賢しさが今になり、
恥ずかしく、何やら惨めで……」

 長秀、秀政は当然のこと、
竹丸も一人前の扱いを受け、意を問われた朝餉の席で、
仙千代に対してのみ信長の口調が変わり、
何やら子供扱いされたような気になって、
ただ、胸に浮かんだままを述べた。
 仙千代が一向門徒を鼠に喩え、
逃げ足の速さ、巧みさに警告を発したのは、
弱い者には弱い者なりの意地があって、
その意気地は、強者には、
到底想像もつかないようなことがあるという意味だった。
 仙千代の鯏浦(うぐいうら)の昔の家で、
下男に発見されて逃げ場を失った家鼠が天井板を齧り、
最後、頭の幅すらも無いような穴に逃げ込む様を見た時に、
穴へ吸い込まれてゆく黒い尻尾に、
心底ぞっとしたことがある。
 下男に棒で突かれても齧り狂い、終いには逃げ、
逃げた先の天井裏で大繁殖し、屋根に穴を空けてしまった。

 仙千代が鼠に喩えた何万という一向門徒が焼かれ、
阿鼻叫喚の内に命を落としたのはまだ今日のことだった。

 いつしか涙が流れていた。
長島の帰り、長良の船着場では、
抜いた刃が初めて敵の血を吸った竹丸を気遣う真似をしてみせたが、
戦場(いくさば)で血を浴びたことは仙千代とて初めてで、
いくら主と我が身を護る為とはいえ、
心の芯に衝撃があった。
 また、その衝撃を主君に告げるなど、以ての外であると、
それも分かってはいる。
 だが、余りに多くが起こり過ぎた一日で、
仙千代は疲労と快楽が混じり合う中で、
思わず弱音を吐いた。

 「斯様に小賢しい、嫌な奴に成り下がってしまった。
生きる為だと分かっていても心が付いてゆかないのです」

 自分でも何を求めているのか不明なままに、
身を捩り(よじり)、信長を振り向いた。
 涙が果てなく零れる。
 主に尽くし、主の役に立つべき小姓の自分が、
主に甘え、泣き言を漏らしている。
 本来、けしてあってはならないことだった。



 
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