第324話 帰郷(12)

文字数 1,777文字

 翌朝、珍しく仙千代は、
日の出を過ぎても寝ていた。

 起こしに来たのは姉達で、
四人が勢揃いしていた。

 皆、こざっぱりとして武家の奥方らしく、
整った身なりをしているが、
華やかな装いの者は居らず、
城中で言えば、御目見えが、
ぎりぎり成るか成らないかの侍の(つま)という風情だった。
 実際、姉達が嫁いだのは、
仙千代が信長に取り立てられる前、
または小姓になって早々のことで、
万見の家格に相応の家に誰もが嫁したのだった。

 賑やかな姉達に褥から引きずり出され、
寝坊を咎められたり、
寝惚け眼で褥に座しているところを、
顔を洗え、口を濯げと(ゆすげと)言われ、
髪を結われ、身体を拭かれ、
挙句に殿様よろしく下帯まで変えられて、
一人前の小姓姿になる頃にはすっかり目が覚めていた。

 そこへ、
姉達の子供、つまり、甥や姪が加わって、
賑やかなこと、この上なかった。

 「叔父上、先だって、
美味しい菓子を有り難う存じます!」

 「金平糖なる菓子、
形がとても面白かった!」

 仙千代は時に、
書物や絵草子と共に干菓子や飴を小者に持たせ、
姉達の嫁ぎ先の子供に届けさせていた。
 なかなか会うことが叶わなくとも、
姉の子達は妹や生家の弟達共々、
やはり気になり、愛しかった。

 今日の顔触れでは、
最も年長の甥さえ、十才そこそこで、
ヨチヨチ歩きがやっとの男児も居るが、
面と向かって叔父上と呼ばれてみると、
一瞬にして頭の霧がさあっと晴れた。

 そうだ、姉上達の子は儂のもとで働けば良い、
上様がいらっしゃるところに儂は行く、
同じように、この坊主達は、
儂と生きていけば良い!……

 思い出の中で、いつまでも稚児だった甥達が、
舌足らずながらも可愛らしく挨拶が出来、
健やかに育っているのを目の当たりにして、
仙千代は目の前が一気に明るくなるのを感じた。

 聞けば、父は既に朝餉を済ませ、
外に居るという。
 仙千代も慌てて腹を満たすと父を追った。

 父は彦七郎と、
万見家の古い方の邸に居た。
 今の邸は信長が建ててくれたもので、
瓦葺の豪壮な普請だが、
旧宅は板葺きで、屋根に補修の痕が何箇所かあった。

 中に入ると、
幾部屋かの戸が取り払われていて、
大きな続き間のようになっていた。
 そこに数卓の簡素な長机が並んでいる。

 寝坊したことを詫び、
父や彦七郎と挨拶を済ませた仙千代は、

 「この机は?」

 と、訊いた。

 すると、これが答だとでもいうように、
彦七郎が机を前に座し、
上座の父に向かって、

 「師父!」

 と笑顔を向けた。
父も、

 「よし、彦七郎!孔子の格言を挙げよ」

 と命じ、

 「四十にして区切らず!」

 と「弟子」が自信満々で答えると、

 「前後はどうした」

 「三十にして立つ!五十にして天命を知る!
六十にして耳従う!七十にして従心であります」

 「十有五はどうじゃ」

 「ううむ……」

 「どうした?」

 一瞬の間を置き、

 「はい!十代は腹が減ります!」

 と彦七郎は頓智(とんち)で逃げ、父を笑わせた。

 正解は「学を志す」なのだが、
それはそうとして、
何を師と弟子になって戯れているのかと仙千代は訝しんだ(いぶかしんだ)

 おそらく日の出直後には来ていたであろう彦七郎が、
父に成り代わり、述べた。

 「万見様はこの辺りの無知無学なる百姓の子らに、
読み書きを教えておられるのだ」

 まるで自分の父であるかのように、
仙千代に威張った。

 「そうなのですか?父上」

 「うむ、まあ、降雨日のみではあるが。
百姓の暮らしは、天気が良ければ、
小さな子も田畑に駆り出される。
また、弟妹の世話もある。
故に悪天の日に、
都合のつく者だけが来るのであるがな」

 「そうなのですか」

 仙千代は短く応じたが、
心中では彦七郎と同じく、誇らしさが胸に溢れた。

 「脚が不自由にて、思うに動けず、
無聊(ぶりょう)をかこつ身なればこその慰みだ。
ここへ来て、文字の一つも覚えれば、
帰りに握り飯の一個を貰い、腹の足しにもなる。
子らは識字欲より、どうやら食欲らしいが、
握り飯が目当てでも良い。
学びは何処かで役に立つ。
却って迷惑だと怒鳴り込んでくる親も居るが、
熱心に教わる子も居て、
まさに、学を志す、じゃ」

 「そうそう、それです!
十有五にして学を志す。
うむ、それでござる!」

 と今になって、
『論語』の一文を思い出した彦七郎はともかくとして、
仙千代は、

 父上は、人を耕す御人だ……
父上は、人という木を育む御人だ……

 と、鼻の奥がつんとして、
薄っすら視界が曇った。

 



 



 

 

 
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