第315話 帰郷(3)

文字数 1,899文字

 基本、せっかちで気短な信長が、
意味不明なこのようなやりとりを続けること自体、
日ごろ有り得ず、
仙千代とは長話になることもある信長ながら、
これは過去に無いことだった。

 「上様、何を仰せになりたいのか、
さっぱり分かりませぬ」

 「それが小癪だと言うのだ!」

 信長は扇子をぴしゃりと閉じた。

 その音が止むか止まぬかで、
彦七郎が、

 「我ら、明日の用意がありますれば、
これにて御無礼仕ります」

 と言うと、彦八郎も、

 「私も同様にて下がらせていただきます」

 と、主従のやり取りに居たたまれないのか、
はたまた信長に呆れているのか、場を外した。

 あっ!二人共もずるいぞ!
遁走か!ええい、誰もかれも腹立たしい!
そもそも何なのだ、この上様は……
ああ、儂もここから立ち去って、
明日の支度でもしたいところだ!
何なのだ、子供でもあるまいし、
訳の分からん駄々ばかり……

 仙千代こそ眉根をひそめ、
口を尖らせて、信長にそっぽを向いた。

 と、二人きりになったところで、
信長が気配を変え、

 「仙。仙千代」

 と、甘い調子で呼び掛けた。

 仙千代こそ機嫌を悪くして一寸も動かず、

 「はい」

 と答えつつ、目線を合わせなかった。

 「こちらへ」

 信長が呼んだ。

 「不機嫌になさっておいでの理由を知りとうございます」

 「それはだな、……」

 「はい」

 仙千代は信長を向いた。
 その途端、
身を一歩前に出した信長の手がさっと伸び、
仙千代を胸に引き入れた。

 「困ります」

 「困らぬ、儂は困らぬ」

 口を吸われそうになったので、またも顔を背けた。

 小さく舌打ちした信長が表情を切り替えた。

 「此度、家の近隣で祭禮(さいれい)がないというのは安心した」

 「はい?」

 「下々の者は祭ともなると奔放になり、
夫婦(めおと)許嫁(いいなずけ)でもないのに野合して、
孕む(はらむ)女さえ居るというではないか」

 「私が左様な真似をするとでも?」

 仙千代は気色ばんだ。
祭のマの字も頭に無いのに、
何を先走って妄想しているのかと呆れてしまう。

 「いやいやいや、そうは言わぬ」

 「仰っています!」

 「そうではないのだ、
左様な下世話な場に仙千代が居合わせ、
万一にも目の当たりにしたならと思うと……
まあ、良い気はせぬのだ、儂は」

 信長の腕の中に仕方なく仙千代は居る。

 「上様は若かりし頃、
津島の天王祭で薄衣を纏い、天女に扮装し、舞って、
民を喜ばせたと丹羽様からお聞きしました。
上様はそこまでなさって、
私なら祭に行くことも許さぬのですか」

 「良い気はせぬ。
儂の供で行くのなら良い」

 大人気(おとなげ)ない言い様を否定するかと思いきや、
ぬけぬけと認められてしまった。

 「おかしな具合に考え過ぎでいらっしゃるのです、
上様は。
たった一夜、家に帰って、
たった半日、帰城が遅れるだけなのです。
しかも家人(けにん)となる人物に会うだけなのです。
それを妙な具合に想像されて。
上様らしくありませぬ」

 「儂が儂らしいかどうかは儂が決める」

 腕から出ようとするとグイと抱き寄せられた。

 信長は湯浴みを終えていて、
純白の絹の夜着姿だった。
 一方仙千代は晩春の日中、忙しく立ち働いていた。

 「仙の匂いが好きじゃ」

 髪に鼻先を埋め、囁いてくる。

 「汗をかいたままなのです」

 「だから良いのだ、
儂は仙が良いのだ、仙千代が……
仙ならば汗の匂いさえ、好ましいのだ……」

 先程までの話が頭に残り、
快楽を貪ろうという気になれなかった。
 
 信長は構わず、
仙千代の耳元に唇を押し当ててきた。

 「仙千代が成長する姿は嬉しく、頼もしい……
我が宝、自慢の仙千代だ。
だが、儂の手を離れ、
仙千代が新たに旅立つと思うと寂しく、
妬けもするのだ、仙と触れ合う何もかもに。
この焦燥は曰く言い難いもの……」

 「故に不機嫌でいらしたのですか」

 「そうだ」

 嫡男である信忠が世界を広げ、
独立して活躍を見せることには目を細める信長が、
仙千代に対しては異なった反応をする。
 つまり信長の不機嫌は、
理性の外の完全な八つ当たり、甘えで、
仙千代への情愛の裏返しだと言えた。

 上様ともあろうものが……
儂のような一介の若造を相手に、
何もそのような思いを抱かれずとも……
上様を裏切るなど、けして出来ぬことだと、
誰より上様が御存知でいらっしゃるはず……

 最もはじめ、仙千代は、
金の(かご)に追い込まれるように、
信長のものとなったのかもしれないが、
信長の深い情け、純な思いを知らないではない今だった。

 「この仙千代を見込み、
一家を成すことをお許しになったのは上様でございます。
上様をなおざりに振る舞うなど有り得ませぬ。
上様の御期待に応え、忠節を尽くす気持ちは、
ただ増すばかりでございます……」

 初夏を思わせる夕べに螻蛄(おけら)の鳴き声がした。

 



 

 

 


 

 
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