第356話 岡崎城(8)鳥居強右衛門①

文字数 858文字

 翌、十五日も朝から一日、
軍議が続いた。

 と、午を少し過ぎた頃、

 「長篠から密使到着!」

 という怒声にも似た報せが飛び込んだ。

 使者の到来を伝えた家臣、
大久保忠隣(ただちか)に家康が、

 「通せ」

 と命じた。

 「はっ、それが端武者でありまして、
上様の御目通りに適う分際の兵ではありませぬ故、」

 信長が断じた。

 「構わぬ!」

 姿を見せた長篠兵に誰もが目を剥いた。
いや、顔を顰める(しかめる)者さえ居た。
 裸とは言わないが、着衣は乱れに乱れ、
黄ばみ、黒ずんでいる。
 漂わす臭気が強烈で、
肥溜めに似た、いや、肥溜めそのものの臭いが、
梅雨間近の湿った部屋の空気を、
一段と濁らせた。

 鳥居強右衛門勝商(すねえもんかつあき)と名乗る足軽は、
地位は長篠城主 奥平家の陪臣で、
本来、重要な伝達に於いては、
相応の使者を立てるべきところ、
長篠城が厳しく封鎖されており、
考えられる脱出点が下水口、
つまり便槽のみの状態となっており、
そこから川を泳ぎ切っての包囲網突破となる為、
泳ぎと体力に自信のあった自分が、
一兵卒ながら名乗り出たということだった。

 長篠からこの岡崎まで十数里……
夜陰の中、
泳ぎに泳ぎ、走りに走り、
この夕刻前に着いてみせたとは、
何たる……

 膝も脛も、足の甲も指も、
傷だらけの強右衛門だった。
 仙千代は胸中で唸りを絞り上げた。
 
 徳川の放った忍びの報告によれば、
武田軍は柵で囲んだ長篠城の周囲の川に糸を張り、
鳴子をめぐらせ、
抜け出す者が居れば鳴子が音を立て、
たちまち捕縛できるよう、
罠を仕掛けているという。
 その罠を搔い潜る(かいくぐる)とは、
知恵、体力共に、驚嘆せざるを得ず、
一同、強右衛門を瞠った(みはった)

 武田軍に捕まれば、
家も名も恥に沈むことになり、
最悪の事態では、
援軍依頼の後に落城している危険もあって、
その場合には、
仲間を見捨てたと汚名を被る……
 強右衛門は言わないが、
手を挙げたのは強右衛門だけだったのだ、
大将、侍は、万一の家の名折れを心配し、
城を枕にする道を選んだに違いない、
強右衛門……
身は低けれど、志は孤高の武士(もののふ)……

 胸を熱くした仙千代は、
息を殺して強右衛門の訴えを待った。



 
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