第144話 小木江城 恋慕(1)

文字数 877文字

 仙千代の信忠を見る眼差しが潤んでいる。
程好い涙袋が木の実のような形をした目の縁を飾り、
黒目は濡れて、白い部分とくっきり分かれ、
妖しく艶めいた。

 仙千代に媚を売るつもりがないことは、
性格を知っている信忠には分かっているが、
同時、その目で見られれば、正気を保つことは難しい。

 この目で、その口で、父上を蕩かせるのか、
仙千代は……

 清らかな口元が、穏やかな声を放つ。
声変わりの時期を迎え、いくらか低くなり、
耳に、いっそう心地よかった。
 純朴な心根だけでも愛しくて堪らないのに、
姿に恵まれ、声が良く、聡明でありながら慎ましく、
機転がきくかと思えば素っ頓狂な可笑しみもあり、
いったいどうすれば嫌うことができるのか、
まったく術が見付からない。
 何の制約もなく、二人きり、たった一日、
いや、半日、一刻で良い、共に過ごすことが出来たなら、
どれほど幸せかと信忠は白日の夢を見た。

 仙千代の眼差しに気付き、(うつつ)に戻る。

 「お怒りは鎮まりませぬか?今も」

 松姫への書き損じの手紙(ふみ)の件だと直ぐに察した。
だが、

 「怒りとは?」

 と、訊き返した。
単なる一小姓との二年以上前の諍いなどとうに忘れた、
いや、もう仙千代との過去の一切に興味がないのだと、
淡白に振る舞うしか信忠に道はなかった。

 「私が手紙を持ち帰ったことでございます。
私によく似た顔が描かれていた手紙を」

 手紙は拾ったのだ、盗んだのではないという姿勢を、
仙千代は崩さなかった。

 それでいい、仙千代は盗みなどしていない、
濡れ衣を着せたのはこちらだと、
誰よりこの儂が知っている……

 「そんなことも、あるにはあったな。
すっかり忘れておった。万見は気にしておったのか」

 本来、明るく朗らかな仙千代の瞳に、
信忠への思慕がそうさせるのか、縋るような表情が宿り、
今日のこの日を境に、
打ち解け合って過ごすことができないだろうかというような
願いの光が見て取れた。

 仙千代の恋慕が痛いほどに伝わる。
信忠も仙千代を組み敷き、あらゆる箇所に唇を這わせ、
目の前のこの魅力を湛えた生き物を喘がせ、乱れさせ、
身体も魂もひとつに溶け合う幻に一瞬、酔った。




 
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