第85話 紫陽花

文字数 2,995文字

 仙千代は振り返り、笑った。
自嘲と保身の無理に作った笑みだった。

 左様なことがあるはずもない……
この世で最も有り得ぬことじゃ!……

 主の手紙を盗んだと嫌疑をかけられ、言い争って、
別れは嫌だと泣き濡れて懇願し、思い余った挙句、
その太刀で殺してくれと死に物狂いで追い縋り、
終いには蹴られた痛みが未だに疼く。
 幼い自分が生まれて初めて知ったときめき、
焦がれる想い、一瞬が永遠にも思われた陶酔と官能、
それらは忘れようと努めれば努めるほど、
仙千代を苛んで苦しめる。

 あれほどの辱めを受け、それでも未練が消えない……
違う、未練ではない、想いはずっと変わらない、
儀長城で会ったあの日から、何も変わってはいない、
忘れたつもりになっても一時で、
隔てる川が深く大きくなるほど、余計にせつなく、狂おしい……

 しかし仙千代は仮面で通す技を習得していた。

 「(せい)と仙は似ておる。発声が。
さあ、もういいか。
褥での睦言まで聞かされてはかなわん」

 仙千代とて、清三郎を真から嫌っているのではない。
どうにもならない妬心に駆られ、
激情で八つ当たりしているだけだと知っている。
嫉妬、怒り、妄想で、
支離滅裂な心情に陥り、自暴自棄になることは、
仙千代の側の問題であって、
清三郎を嫌悪する理由にはならない。

 「時に若殿は誰も近寄せず、物思いに耽ってしまわれる。
仙様のことを思っているのではと……」

 仙千代は取り合わなかった。
温厚で柔和な信忠に嫌悪を催させ、
確かに軽蔑されて、激高させた。
それは仙千代自身が目の当たりにしている。

 縋って、罵倒され、足蹴にまでされて、
何が儂を思うものか、
穏やかな御人柄の若殿をああまで怒らせたのは儂だ、
盗人は嫌いだと若殿は仰った……

 「付き合えん。馬鹿馬鹿しゅうて。
褥で儂の名を呼ぶとか、物思いの相手が儂であるとか、
万が一にもまったく有り得ん。
それこそ、斯様な話を若殿がお知りになれば御不興のもと。
二度と口にするな」

 「仙様も、若殿を思っておられるのでは?」

 「左様なことがあるはずがない!
殿のお耳に入ったら成敗される!
迂闊なことを言うでない!迷惑じゃ!」

 「なれど、時に、若殿をじっと見ておられます」

 「気のせいだ!そんなことは絶対にない!」

 もうここには居たくなかった。
未練の傷口が疼き、塩を塗り込まれるようだった。
何よりも、仙千代の想い人が信長の知るところとなれば、
仙千代の生命の有無に関わり、
信忠の将来にも影を落としかねない。

 「仙様は誰かを思い、せつなさに悶えたことはないのですか」

 「無い」

 「若殿をよく見詰めておられるではありませんか」

 「儂が何と答えれば満足する。話にならぬ」

 どのような答えを導きたいのか、
食い下がる清三郎に仙千代は倦んだ。

 仙千代は声の調子を変えた。

 「勤めの間はあくまで主従。
なれど、夜に二人になれば若殿と清三郎も男と男。
お慕いしていると、しかとお伝えすれば良い。
若殿の御性格を儂はよく存じ上げないが、
気遣いのできるお優しい方だと皆が言う。
たださえ可愛い清三郎のことだ、
慕っていると告げられて嬉しくないわけがない。
告げたことがないのなら睦言混じりに告白すれば、
若殿も苦しからざる御気持ちになられるであろう」

 立ち去りたい一心の方便と、本心が綯い交ぜ(ないまぜ)だった。

 恋しい思いで涙を浮かべ、
猶子(ゆうし)話の感謝の印に鎧櫃(よろいびつ)を作り、
いじらしさは相当なもの、
癇癪を起して竹に当たったり、逢瀬を邪魔して石を投げたり、
そんな儂なんかより、よほど健気だ……

 もしや信忠と仙千代の間に何かあったのではないかと
想像しながらも、
けして仙千代に嫌な態度を見せない清三郎は、
名前のとおり、清らかな心根の持ち主だと仙千代は思った。

 三郎や清三郎のような気構えの者が侍っておれば、
若殿の身辺は安泰じゃ……

 いつしか、信忠と仙千代の間に流れていた川は、
小川が大河となりつつあった。
初めて儀長城で出逢い、次の初夏、津島で想いを告げ合い、
現世、来世、いや、永遠を約束したが、
何の障害も無いと思われたのは二日間だけで、
その後は別れ話から喧嘩となって、もう二年が経った。

 年の瀬には、知り合ってから三年になる。
その間に想い人同士であったのはたったの二日、
しかも、深い口づけさえ、していない。

 確かに若殿が仰ったとうり、
若殿と儂の間には何も無かった、
無いに等しい二人で終わってしまった……

 紫陽花が、霞んで見える。
久しぶりに涙が浮かんだ。

 清三郎がぼやけて見える。

 「何故、泣かれるのです。仙様」

 「ん?うむ……羨ましかったのだ。清三郎を」

 「私を?」

 「そ、そうじゃ。うむ。儂は誰かを好いたことがない。
左様な経験はなく、城へ上がってしまった。
清須の町で好いた女子(おなご)が一度は居って、
今もまた若殿という素晴らしい御方にめぐり逢い、
そんな清三郎が羨ましいのだ。
儂もいつか誰ぞ、慕う日が来るのかと、寂しく思って」

 信忠と仙千代の間柄を疑問に思い、
悩む清三郎を楽にしてやりたいという気持ちと、
僅かでも信忠との関係を疑われてはならないという心理で、
仙千代は口走った。

 「では、若殿は違うのですね。仙様の想い人とは」

 「もちろんそうだ。先ほどからそう言っておる」

 「殿は?お慕いしてるのでは?」

 信長は、以前は、信忠の背景だった。
今は仙千代の生殺与奪を握る運命の掌握者だった。
小姓として寵愛を授かり、重用もされている。
しかし、二人になれば、
それこそ信長は、一人の男として仙千代を遇し、接する。
そこには権力も権威も振りかざすことのない純な信長が居た。
そして、そんな信長に仙千代も惹かれはする。
地位も年齢も経験も何もかも違う信長が、
二人で居れば、仙千代のもとまで降りてきて、
心も感覚も、信長の側が合わせてくれる上、
そのひとときを信長は心から愛しんでいた。

 「お慕いしている。それは確かだ……」

 信忠一人だけを思っていたはずなのに、
信長を慕っていないと言えば嘘になる自分に気付いた仙千代は、
またしても時の流れを感じざるをえなかった。

 二年は長い、長かった……
若殿にも、儂にも……

 清三郎はどのように気持ちの折り合いをつけたものか、
微笑んでいた。

 「若殿にお告げします。お慕いしていると。
召し上げられたから御相手をしているのではないと」

 「そうだな。若殿は受け止めてくださる。きっと」

 「はい。私も左様な気が致します」

 「何だ、惚気か」

 はっとした顔をした清三郎が頬を染めた。

 「鎧櫃、出来上がったら見せてくれ」

 「はい、必ず!」

 「楽しみだ」

 「ありがとうございます!」

 仙千代の後ろ姿に悲しみが浮かんでいることに、
おそらく清三郎は気付かないだろうと仙千代は思い、
それで良いのだとも、考えた。

 儂がじたばたしたとて何も、どうにもならぬ……
三郎、清三郎、今では勝丸も若殿の寵童、
儂がいくら妬心を抱いても一寸とて事態は変わらぬ……

 一度、視線を感じて振り向くと、
紫陽花に囲まれて、清三郎が見送っていた。

 紫陽花の精か……
清三郎は姿以上に心の美しい男だ……

 信忠と仙千代の間に何かあったのではないかと悩みながらも、
清三郎はあくまで仙千代に礼して接し、
親しみを見せた。

 儂なんかより、よほど上等な男だ、
若殿にふさわしい、清らかな心の主だ……

 鎧櫃の完成を楽しみに待とうと仙千代は気分を切り替えた。
いや、切り替えるよう、努めた。

 
 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

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