第177話 河内長島平定戦 勝鬨

文字数 1,499文字

 信長本隊が布陣している長島の本城周辺は、
一揆勢の残り幾ばくかを成敗するだけとなり、
死体が累々と川面に浮かび、
耐え難い痛みに呻く怨念のこもった声が響くばかりで、
辺り一帯、大きな動きは消えていた。

 信忠の生存を示す馬標は安泰だった。
 だが、
織田木瓜と永楽銭の旗指物は激しく数を減らし、
信長は、
血脈、忠臣の誰を失ったのかを想像するだに悲しみを覚え、
屋長島、中江の二城に火が放たれたのか、
澄んだ秋空に昇る黒煙を見て取っても、
勝利を喜ぶ感慨は湧いてこなかった。

 「後は、佐久間、柴田に任せる。
他は全員、本領地、もしくは岐阜へ凱旋じゃ」

 凱旋という言葉を使う心境ではなかった。
しかし、総大将として、
悲嘆に暮れてばかりはいられなかった。

 側近の菅屋長頼が、

 「総大将の勝鬨(かちどき)を皆が待っております」

 と、告げた。
 長頼の毅然とした口調に迷いはなかった。
 
 長頼は数時間前、兄、小瀬清長を亡くしている。
忠義の心から、病の身をおしてこの合戦に参じ、
主君 織田信成に殉じ、生涯を閉じた清長だった。

 ひとつ、大きく息を吸った信長は、

 「勇猛果敢な数多の武将、家臣、親族を喪ったことは辛い。
ではあるが、勝ちは勝ちだ。
この長島の地に、
本願寺の凶徒が巣食うことは二度と無い。
摂津の顕如に向けて勝鬨を上げよ!」

 信長が朱紐の采配を振るい、

 「えい、えい!」

 と叫ぶと、

 「オー!」

 と、全軍が応える。
三度(みたび)これを繰り返し、
波のように音声(おんじょう)が伝播してゆく。

 見ると、仙千代、竹丸は、
顔面、甲冑に返り血を浴びていた。

 「討ったのか。敵を」

 戦を指揮、総覧する中で、
小姓二人がどのような動きをしたか、
その時は、
目にしていながら目にしていないも同然だった。
 戦いを終えた今、
仙千代、竹丸が、
狂信の一揆衆が総大将目指して押し寄せる中、
俊英の馬廻りやそれに従う彦七郎、彦八郎らと共に、
主の身に凶徒を近付けまいと打刀を振るい、
必死の防戦をしていた姿が蘇る。

 仙千代は唇をきっと結び、顎を引いた。
竹丸は信長に頷いた後、仙千代を見、
兄が弟を慈しむような面立ちとなった。

 二人の立つ向こうには遥か、信忠の馬印が揺れている。

 生命を失うという強烈な危機を乗り切った安堵。
 十年来の怨敵を徹底的に壊滅させたという歓喜。
 血脈、忠臣を数多亡くした悲痛。
信忠、信雄、信孝という三人の子、
丹羽長秀、前田利家、菅屋長頼ら血族にも等しい臣下、
仙千代、竹丸という愛しんで止まない寵臣達、
それら心を許す者達が命を長らえ、共に居る喜び。
 思いは綯交ぜ(ないまぜ)となって、
信長の心身を駆け巡り、渦巻いて、
ひとつの感情に収めることは困難だった。

 「もう当分、海は見たくない」

 信長のつぶやきは静穏だった。
 初めて長頼が涙を流し、
嗚咽を堪えるように唇を震わせた。
 仙千代、竹丸の頬の血を、涙が洗った。

 「帰ろう。岐阜へ」

 涙を押し込み、ふたたび表情を引き締めた長頼、
悲しみと安らぎを瞳に湛えつつ微かに微笑んでみせた仙千代、
遠い先を見据えているかのように澄んだ眼差しの竹丸、
三人は信長に頷き、従った。

 夕刻前には岐阜城へ着く。
およそ三ヶ月ぶりだった。
 長島に一向一揆が起こることは金輪際有り得ない。
尾張 美濃 伊勢の合流地である要衝の長島城には、
船団を擁する滝川一益を入れ、城主とすると決めていた。
 北伊勢四十八家を駆逐し、
今や伊勢の地で領主となっている次男 信雄、
三男 信孝と合わせ、
伊勢国の支配はこれで完了した。

 これからも顕如との戦いは続く。
武田勝頼もいずれ、打って出てくることは間違いない。
 しかし今は岐阜が懐かしかった。
山頂から望む尾張 美濃の悠々たる眺めが、ただ懐かしかった。


 





 


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