第375話 志多羅での軍議(9)仁王

文字数 1,426文字

 信長は忠次(ただつぐ)が言上を発する前に、
仁王然とした面立ちに成り代わっていた。
 見開いた白眼が充血し、
黒目が異様な光を放つ。
 信長の中で、
何かが生まれたのだと仙千代は知った。

 ただ、今は、忠次に顎を向け、
信長は口上を許した。

 「勝利を確かなものとする案とは何か」

 信長の血走っていたはずの眼が、
一瞬にして静謐に変化していた。

 「今夜にも長篠に発ち、
明朝、陽も昇らぬ内に、
鳶ケ巣山(とびがすやま)砦を背面から襲い、
残る四砦も同時に攻め立て、
武田の五砦を撃破した上で長篠城を救出!
その勢いをもってして、
敵の軍勢を混乱に陥れ、
武田全軍を志多羅へ追い込み、
御眼の前(おんめのまえ)に引きずり出して御覧に入れてみせまする!」

 一同から感嘆の声が上がった。
 藤助が敵砦五つを雨の中、踏破して調べ上げた情報が、
忠次の智勇に火をつけ、奮い立たせた。
 仙千代も忠次の奇手に意を同じくし、
五十路が近い壮年武将の血気に感銘を受け、
咄嗟に信長を見た。

 忠次の言葉が終わるや否や、
信長の間髪入れぬ怒声が響いた。

 「たわけ!
左様な所業は田舎武士のすることだ!
織田と武田の戦いで、
闇討ちがあったとなれば百代の恥!
酒井!余に恥をかかせるか!」

 雷光が、立ち上がった信長の顔を一瞬、
白銀に照らした。

 忠次は直ちにひれ伏し、
同時、家康はじめ、三河勢が全員、
忠次を模した。

 信忠は時に見せる、
茫洋とも見受けられる無表情を作り、
信雄(のぶかつ)は目を白黒させている。
 忠次の案を良策だと受け止め、
喜悦を浮かべていたはずの織田家の諸将は、
敢えて難渋を装っていた。

 信長は仁王立ちになり、

 「急峻なる山を背後から襲おうとは、
九郎義経にでもなったつもりか!
その小賢しさ、見苦しきこと極まれり!」

 平伏の限りを尽くす忠次、家康を、
仙千代は正視できず、
座した信長を意味もなく扇いだ。

 竹丸ならば、
今の信長をどのように見るだろうと去来したが、
強雨の際の陣城の様子を確かめる為、
竹丸は作事や陣場の奉行衆と外へ出ていた。

 いや、待て!
上様は、此度は徳川の戦だと、
何度も仰せであった!
何故に織田と武田の戦などと、おかしなことを……
しかも上様は、
田舎武士などという仰り様(おっしゃりよう)をされたことはない!
京であろうが何処であろうが、
上様はそのような類いの仕切りは持っておられぬ!
それを酒井殿に向かって田舎武士とは、
有り得ぬことだ!
しかも、その仰り様なれば、
一之谷を馬で下って平家の背を突き、
奇襲で勝利を収めた判官(ほうがん)九郎義経も、
田舎武士なるものになってしまう……
牛若丸は鞍馬で修行したはず、
鞍馬は京の山だ、すると田舎か?
しかし京だ……京の山は田舎なのか?
どうなのだ?……

 仙千代が思念に夢中になって扇を、
つい忙しく(せわしく)動かすと、
信長が仙千代に、

 「扇がずとも良い」

 と呆れ顔を向けた。

 その眼差しに怒りの名残りは微塵も無く澄んでいて、
仙千代は、
先程の怒号が信長の本心ではないと心中で確かめた。

 豊田藤助の報告に、
誰もが明るい兆しを見て、
忠次の策にも膝を打ったが、
案は信長に否定され、
後は淡々と軍評定が続いた。

 やがて散会となって、
信長父子、河尻秀隆ら、ごく親い(ちかい)者だけになると、
直ぐ様、信長が仙千代に命じた。

 「呼んでまいれ!」

 誰をと指図されずとも、
仙千代は酒井忠次だと分かっていた。

 「徳川様も呼ばれましょうか」

 「それと金森、日根野だ」

 「承知!」

 仙千代は、
彦七郎、彦八郎の市江兄弟と近藤重勝に指示を与え、
忠次、家康、金森可近(ありちか)、日根野弘就(ひろなり)を、
再度、信長のもとへ参集させた。

 




 

 

 


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