第374話 志多羅での軍議(8)献策

文字数 1,037文字

 豊田藤助は、
東三河の山間(やまあい)の、
一郷士に過ぎない自分がもたらす報せが、
戦国の世の行く末をがらりと変えるものになるかもしれぬとは、
本人はおそらくそうとは知らず、
ただ、里を守りたい、
一族の血で贖って(あがなって)きた地を手離すまいという一心で、
突き動かされているのに違いなかった。

 家康に成り代わって、
三河の東半分を任されている酒井忠次(ただつぐ)に、
先程信長は下問し、
武田の三河侵攻に関しての決意の程を確かめた。
 家康の人質時代に付き従って、
尾張、駿府で長く暮らした忠次が、
ようやく恵まれた、
十二歳でしかない大切なはずの嫡子を急ぎ、元服させ、
この戦に今回、伴っている。

 仙千代は、
信長が、忠次の意志を重く見ていることを、
感じ取っていた。
 その見立に仙千代は自信があった。
信長の微かな目動き一つで仙千代には分かる。

 上様は酒井殿を、
吉法師時代から見知っておられる……
酒井殿を知る上様は、
その忠義、その智勇兼備を、
存じておられる……
 
 仙千代は信長が、
忠次の意を強く斟酌するだろうと確信していた。

 息が整い、喉が潤った藤助が、
ようやく幾らか声を低めて述べた。

 「この雷鳴、豪雨はやがて、
長篠へ流れて行きましょう。
美濃の雨雲は尾張に、
尾張の雨は三河に。
西三河の雲は東三河へ。
申すまでもなく、
常にそうなっておりまする。
晴天なれば、そろそろ日没。
たださえ長雨に祟られ、
倦んでいる武田軍が、
今宵、
暴雨に苦しむ様が見えるようでございます」

 信長は仙千代を一目した。
天候の話の直後だったので、
信長の所望は熱田の神職達だと知れた。

 熱田の禰宜(ねぎ)の二人と権禰宜(ごんねぎ)を、
仙千代が呼ぶと、
奥に控え、すべてを聴いていた三人が現れ、
信長の問いに応じて出した答は、
全員一致で明日は晴天という占断だった。

 「相分かった。下がれ」

 信長が目をぎらつかせ、
何事か巡らせている隙に酒井忠次が、
ぐぐっと身を乗り出して、言上(ごんじょう)した。

 「畏れながら!」

 家康はびくとも動かず、
信長と忠次の緊迫の気配の中に、
身を置いていた。
 家康の信長への畏怖、忠次への信頼が、
痛いほど伝わる。

 忠次に対し、
信長は無言で受けた。

 「此度、
上様の御味方衆をもってすれば、
大勝利、間違いございませぬ!
決定的勝利をいっそう清か(さやか)たるものとすべく、
献策仕り申し上げます!」

 信長の眼光が忠次を射った。
射られた忠次は畏縮を押し込め、
背筋を伸ばして信長を仰いだ。

 仙千代の扇は膝の上でグイと握られ、
動きを止めていた。
 ごくんと嚥下してみたが、
口中は渇き、
喉に唾の一滴も落ちてこなかった。




 







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