第280話 出羽介

文字数 1,819文字

 闊達な秀政がいつにも増して明快な口調で告げた。

 「織田勘九郎様、出羽介(でわのすけ)御就任」

 織田勘九郎とは信忠のことで、
家臣である秀政が、
(いみな)である信忠という名を口にすることは決してない。
面と向かって勘九郎という通名で呼び掛けることも、
もちろん、ない。
 今は敬愛と親しみを込め、呼んだのだった。

 「今朝の今朝、こちらに出立の前、
勅書が届けられた。間違いない」

 「勅書!おお!」

 「出羽介様とは!」

 「何と目出度い!」

 「若殿が出羽介様に!」

 居合わせた若手の側近全員が興奮を隠しきれず、
隣の者同士、見合わせたり、
新たに杯を空けたり、喜びを隠しきれない。

 感激屋の彦七郎に至っては、

 「若殿が、いよいよ出羽介を補任(ぶにん)なされる!」

 と、涙ぐんだ。

 出羽介という冠位はない。
律令制度の外側に作られた地位であって、
それだけ特別な意味を持っていた。
 出羽介に補任(ぶにん)するということは、
この先、秋田城介(あきたじょうのすけ)を名乗ることが道筋だった。
 秋田城介の由縁は奈良時代にさかのぼる。
秋田城は、
東北地方の日本海側にある出羽国(でわのくに)に置かれた大規模な官庁で、
東北の政治 軍事 文化の中心地となっていた。
 十世紀後半には、
古代城柵としての機能を失うものの、
以降も、歴史書に「秋田城」の名称や、
官職としての「出羽城介(でわじょうのすけ)
「秋田城介」が記されており、
鎌倉以降、秋田城介は北方を鎮護(ちんご)する役職名となって、
武門の栄誉となっていた。

 仙千代も一瞬、頭がぼうっとして、
盃に自ら酒を注ぎ、ぐいっと飲んだ。

 様々な感情が込み上げて、
酒のせいだけではなく、頬がカッと熱くなる。

 若殿、出羽介御就任、おめでとうございます!
出羽介となられた暁には、
城介を賜ることも遠からず、
帝、そして上様の御期待の大きさが、
確と(しかと)伝わりましてございます!……

 現在、信長が参議、
つまり唐の国でいう宰相だった。
信忠も既に殿上人としての資格を有していたが、
今までは信長との関係上、
特に許されたものであって、
信忠の単独的地位が勅認されたものではなかった。

 信忠が出羽介になるということは、
朝廷が関東以北を織田家に任せるということを意味し、
たとえ名目上であれ、
この国の支配を信長に委ねるとしたも同然だった。

 信長がかねてより、
信忠、その弟達、重臣の為に猟官していることは、
もちろん仙千代も知っていた。
真の実力をつけた今の信長は、
自身の昇進にさしたる興味を抱いていないと観ていたが、
官位が伴えば錦の御旗となって、
戦闘の遂行が格段に容易となる。
 人は金、権力に群がる。
同時、
美しく飾られた建前も、
特に武人は、
けして見ぬ振りは出来ないようになっている。

 「仙千代、顔が赤いぞ。
よほど嬉しいと見える」

 秀政が名指しした。
仙千代が応じる前に彦七郎が割り込んだ。

 「我ら鯏浦(うぐいうら)からの三人組は、
もとはといえば若殿の御小姓にて、
岐阜の城に居ります御小姓達に負けぬ程、
若殿への忠義の思いは熱いのでござる。
お分かりですか、(きゅう)様」

 彦七郎の上機嫌ぶりに秀政は、

 「儂は仙千代に訊いておる」

 と苦笑しつつも、
彦七郎に負けず機嫌が良かった。
 
 仙千代が答えた。

 「それはもう、嬉しゅうてなりませぬ。
今後、武田や本願寺と戦を重ねていく上で、
出羽介、
いや、秋田城介という名が織田軍にありますれば、
一段の威圧となりまする。
城介様といえば、北の将軍。
これを寿がずに(ことほがずに)おられましょうか」

 「うむ!天下統一に向け、上様に、
いっそうの発奮を帝は促されたということだ。
さこ姫様の御婚姻と合わせ、
実に目出度い、佳き(よき)佳き日だ」

 盃を揚げた秀政に皆が呼応し、
酒を注ぎ合い、誰の顔にも笑みが溢れていた。

 仙千代も、今日の酒は甘いと感じた。
ただ、ふっと過った(よぎった)感情が切ないことに、
微かな寂寥(せきりょう)を覚えた。

 このようにして、
若殿がどんどん遠い御方になる……
若殿が、
儂を好んでおられないことは知っている、
なれど、
若殿の御出世も御活躍も、
我が事のように嬉しい儂は、
とんだ間抜け、大間抜けじゃ……
若殿はますます輝いて、先へ先へと進んで行かれ、
儂は若殿と別の道に向かっているのか……

 織田家の為に働き、信長に尽くす、
ひいてはそれが信忠の為だと理解していても、
信忠の側仕えをしている三郎や勝丸を羨ましく思う心を、
仙千代が無にすることは難しかった。

 仙千代は、信長の身辺、意向に関して、
他のどの近習より先んじて、
尋ねられることが多くなっていたが、
幾重にも喜ばしいはずのこの日、
甘い酒の奥に、微かな苦みを感じていた。




 



 

 



 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み