第223話 信玄の幻影(2)

文字数 1,227文字

 霜月の末の今、仙千代の記憶は遡る(さかのぼる)

 天正二年、今年の梅雨入り直後、
三河からの帰路、
境川を越え、尾張に入ったところで、
いったん人馬を休めることとなった時、
仙千代は信長に湯冷ましを差し出しながら、

 「途方もない黄金を賜って、
腰を抜かさんばかりに驚いておられましたね」

 と言った。

 「浜松殿か?」

 「はい」

 家康の居城は浜松で、
信長はその名で娘の嫁ぎ先の舅を呼んだ。

 この辺り、境川といえば若き日の信長が、
尾張へ侵攻を進める大々名 今川義元と争って勝利を得、
乱世の流れを大きく変える戦となった、
桶狭間合戦が繰り広げられた一帯で、
信長にとっては思い出深い、縁起の良い場所だった。

 奇跡とも言われる大勝利を収めた懐かしい地で、
梅雨の合間の青空も爽やかに、新緑が映え、
信長は穏やかな顔を見せるかと思われたが、
むしろ逆で、表情は引き締まっていた。

 「あの金は浜松殿なればこそ渡したものだ。
同盟相手であろうが閨閥を成しておろうが、
信無き者には努々(ゆめゆめ)あれまでの金をやりはせぬ」

 仙千代も正確な換算をしたわけではないが、
信長が用意した黄金は、
家康が築城して住まわっている、瓦葺きではない上、
土造りの今の浜松城程度なら、
新たに造営が可能な程の額であり、
如何様にも使い道のあるものだった。

 「城を改築する、領内の普請や作事に費やす、
何にでもあの金は使える。
だが、浜松殿は聡い。
高天神城を奪還すると誓ってみせたからには、
あの金を無駄にはせぬはず。
名目上、
救援に間に合わなかった詫びとして渡したが、
あれを使い、
次こそ武田に如何に目に物を言わせてくれるか、
儂は楽しみにしておる」

 信長は喉を潤しつつ、遠い目をした。

 「仙千代も存じておろう。
浜松殿は織田家に二年、身を寄せておった。
父上が策を弄し、
尾張へ連れ入れることに成功したのだ。
人質とはいえ、
松平の若君であることには変わりない。
我が父は手厚く保護し、
しかも、浜松殿、つまり竹千代を気に入って、
人質交換で今川へ遣り、手離すこととなった時、
ずいぶん惜しんでおられた。
やがて、儂が今川を討ったことにより、
浜松殿は岡崎へ戻り、故郷で復権を果たした。
亡き父上も今こうして儂と浜松殿が手を組み、
縁戚となって強敵、武田と戦っておると知ったなら、
破顔されるであろう。
尾張と三河は宿縁で、長らく敵同士であった。
だが今はもう、恩讐の彼方。
あの金で浜松殿が何をしでかしてくれるのか、
手並みをとくと拝見といったところだ」

 最後、ようやく表情を緩ませた信長は、
仙千代に、

 「仙が相手であると儂は、よう話す。
話し過ぎて喉が渇いてかなわぬ。
もう一杯、所望じゃ」

 と器を差し出し、笑顔を見せた。

 信長の話を聞いた仙千代も、
あの黄金を家康がどのように使い、
いったい何をどうするか、楽しみに思い、
胸が高鳴った。

 およそ半年前の梅雨の晴れ間のこの語らいを、
仙千代は記憶していて、
三河と尾張の国境である境川の丘陵の緑眩い眺めが、
霜月の底冷えの今日、鮮やかに思い出された。
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