第229話 鷺山殿と日根野弘就(4)

文字数 1,022文字

 「言いたくないが……」

 信長は渋面を作った。

 「日根野は於濃の兄弟二人を斬殺しておる。
亡き舅殿が嫡男と争い、敗北し、
憤怒の内に非業の死を遂げられたのも、
もとはといえば端緒はそこだ。
あ奴はその後も織田家への抵抗を続けた。
いくら主君を変えようと、それだけは一貫しておる。
これを仇敵と言わず何と言う」

 鷺山殿は落ち着いた色合いながら、
新春にふさわしい梅の花の刺繍が施された、
豪華な打掛を羽織り、絹の扇子を携えていた。

 扇子で口元を覆い、
何やら、くくくと声を噛み殺し、笑っている。

 「何を笑う」

 「簡単なことではありませぬか。
ですから、日根野を手元に置けば良いのです。
日根野はああ見えて、忠義者と言えなくはない。
殿が抱え込んでしまわれれば、
次は殿に尽くしましょう」

 信長も鼻で笑い返した。

 「戯けた(たわけた)ことを。
於濃。父、兄弟の恨みを忘れたか。
この稲葉山で、たった二十年前、起きた惨事ぞ」

 「忘れてなどおりませぬ。
なれどあの時、城主はもう父上ではなく、
異母兄(あに)に家督が移っておりました。
日根野は主君に従ったまで」

 信長は如何にも面白くないという顔をした。

 「あれ程に儂の敵陣営を渡り歩いた男は居らぬ。
儂は嫌いじゃ」

 「我が異母兄(あに) 義龍、その子の龍興、
今川氏真、浅井長政、下間頼旦(しもつまらいたん)
ただの一人でも、
日根野が裏切った主君が居りますか?」

 「まあ、居らぬわな。
左様なことは知っておる」

 「私が申し上げたいことは、
ただそれのみでございます」

 仙千代はふたたび信忠をそっと見遣った。
信忠は平素の柔らかな表情に戻っている。

 若殿は若殿で、お考えがおありになって、
御心の中で、
御意見がもう決まっておられるのだ……

 と、仙千代は見た。

 「儂はあ奴が嫌なのだ。
あ奴が絡んだ戦では親族だけでも途方もない死者。
忠臣達も数知れず。
また儂自身、浅井、朝倉に挟撃され、
わずか十数騎の馬廻り衆と京へ辿り着くという、
撤退戦の苦汁を舐めさせられ、
総仕上げがあの長島だ。
虫酸が走るとはこのこと。於濃、以上じゃ。
この件はこれで打ち切りとする」

 信長が今度こそ立ち上がろうとすると、
鷺山殿は扇子を七分通り広げ、
顔を隠し、少しばかり嗚咽を漏らした。

 「何じゃ、次は涙か」

 「泣いてなど……」

 「泣いておるではないか」

 「いえ。泣いてなどおりませぬ。泣いてなど……」

 横向いて、扇子で表情は見えないものの、
明らかに声は涙まじりになっている。

 「母上様、如何なされました」

 信忠が「出陣」してきた。

 

 



 
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