第392話 志多羅の戦い(11)兄弟それぞれ

文字数 1,482文字

 若い二人に織田家の本領地の特性について、
今この時、
あらためて語った河尻秀隆の真意は、
信長が長年、野山、海岸を住処(すみか)とし、
甲冑を枕に辛苦の道を歩み、
手に入れた栄光も、
けして信長の独力ではなく、
何をするにも困難の少ない地の生まれで、
運良く大きな災害や飢饉も知らず、
ここに至ったことは天恵であり、
一方、
数百年の長きに亘って(わたって)貴人武家として、
武士の社会に君臨してきた武田家は、
武辺、文事、血筋がいかに優れていようとも、
この後、滅んでゆくのなら、
敗けた相手は「時代」であって、
信長一人に敗北を喫するのではない、
また、いかに尾張の地が大切か、
織田家の繁栄と永続は、
尾張との紐帯(ちゅうたい)にかかっているのだと、
説いたことに違いなかった。

 この二年、勝頼に一度も勝てず、
城や砦を織田や徳川は失い続け、
上様は勝頼の侮り難い力を知って、
驚嘆し、
ある時は賛辞の色さえ隠さずにおられた……
故に上様は、
この陣城築城を決定されて、
莫大な額を投じられもした……
武田家が戦っているのは、
織田、徳川だけではない……
勝頼は運命、
いや、宿命に挑んでいるのだ……

 信忠が無言の内に様々を思い描いている横で、
秀隆の問い掛けに信雄(のぶかつ)が、
先んじて口を開いた。

 「甲斐信濃では、
寒冷気候が長引いて、
飢えと病が収まらぬ長い時を経て、
昨夏、武田勝頼が、
難攻不落とされた高天神城を手に入れた。
高天神は温暖にして、かつ遠州灘に遠からず。
これにより海まで版図(はんと)が広まって、
勝頼は自信を深め、三河侵攻を決めた。
なれど、長期に疲弊した領国が、
一挙にそこまで広がって、
むしろ、国の経営はどうなのか。
拡大すれば家臣や兵も散らばって、
いっそうの財力が要求される。
天変地異さえ、
君主の不徳とされるが世の常とはいえ、
今この時に決戦に挑んだ勝頼は、
とどのつまり進むも地獄、引くも然り……
気の毒ここに極まれり……」

 いかにも優勢に戦況が運ぶ様を横目に見つつ、
信雄は語った。

 信雄の言い分は間違ってはいない。
秀隆も否定せず、傾聴していた。
 だが信忠は咀嚼し切れぬ思いを抱いて、
ずっと無言を決め込んでいた。

 戦績らしい戦績も無い我ら兄弟が、
何程のことを言えるのか……
何を言っても薄ら寒い……

 「若殿、如何思われまする」

 と、己の演説に、
満悦の信雄が呼び掛けた。
 
 信忠は返した。

 「与兵が言うは、
戦には銭がかかるということだ。
せぬでも困らぬ戦なら、
やらずに越したことはないというだけだ」

 何故に兄の不興を買ったか察せぬ信雄は、
口を尖らせ、
困惑の色を隠さなかった。
 秀隆は信忠に大きくひとつ、頷いた。

 とはいえ、良くも悪くも、
遺恨を心に残さない信雄が、
得意の忙しなさ(せわしなさ)を見せ、

 「やっ!ややっ!若殿、あれを!」

 と、馬から降りて眼下を指し、
叫んだ。

 信忠に近侍している三郎、勝丸が、
恐ろしい程の無表情を決め込んでいる。
 よく見ると口を真横に引き締めていて、
何か、堪えているのが分かる。
 二人は猫の目のように小忙しい(こぜわしい)信雄を、
主の弟君であるとして、
笑いを抑えることに必死なのだった。
 信雄の小姓達ですら、
眉を八の字にして微苦笑を噛み殺している。

 打ち迫っては引き、
下がっては押し寄せ、
攻められれば陣へ後退していた連合軍の兵は、
陽動戦を切り上げて、
引き付けた陣城の内外で敵と戦っていた。

 「あれは赤備えの!馬が鉄砲で!
ああっ!山県(やまがた)!」

 信雄の声は、
信忠に負けず、信長に似て、
狂瀾怒涛の合戦場を見下ろして、
よく通り、響いた。

 兄弟が見据えた先には、
戦国最強の精鋭とされた赤備えの将、
山県昌景が、
弾を食らって倒れた馬体に振り落とされて、
雨後の泥地に打ち付けられていた。




 

 


 
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