第88話 初恋(2)

文字数 1,822文字

 「知ってのとおり、儂は実の母に疎まれた身。
儂の行状が母上には理解の外であったのであろう。
今でこそ、こうして共に岐阜城に住み、
儂の子の世話をしたりしておるが、若い頃には弟の城に居って、
儂を暗殺せんと二度まで企てた弟に与して(くみして)おった。
いや、実情は、母が弟をたき付けたのやもしれぬ。
説明嫌いで短気な儂を母は理解ができず、持て余し、
織田家の行く末を案じたのであろう。
いや、品行方正な弟を溺愛する余り、儂を憎んだか。
いずれ、儂は母に愛されなかった。
おかしなもので、
儂を二度まで殺害せんとした母に認められたい、
見返してやる、そんな思いも若い頃には無いではなかった。
ある種の復讐心か。何であろうな……」

 「今は?」

 「憐れに思う。家の存続を願い、弟に肩入れしたはいいが、
天は兄を選んだ。嫌ったはずの儂の庇護の許、今は暮らす。
彼岸を渡れば、父上にも弟にも詫びねばならん憐れな女人だ」

 信忠はじめ、子には絶対に漏らしはしない心情だった。
十代半ばより共に過ごしている正室の濃は別として、
側室達にもこのことは口にしない。
現実の親族にこの話をすれば、
余分な尾ひれが付くことが目に見えていた。
小姓、中でも特別に目をかけた小姓というのは不思議な存在で、
臣下であって、同時、
共に過ごす時間が最も長い疑似家族のようなものだった。

 竹丸が息を潜め、じっと聞き入っている。

 「慕った初めての女人が大御ち殿というのは、
満更、冗談でもない。実の母のように思っておった」

 傾聴していた竹丸の目が光った。

 「殿の御心の広さに胸を打たれるばかりでございます。
一度は弟君様をお許しになり、
弟君様を泣く泣く成敗なさった後は、
弟君様の御味方をされた御母堂様を、
この岐阜へ呼び寄せられ、何不自由のない暮らしを……」

 「つまり、裏切りを赦す心情を尋ねておるのか」

 「仰せのとおりにございます」

 信長は仰向けとなり、竹丸を腕枕した。
竹丸が軽く、抱き着くでもなく抱き着いてくる。

 「最後に頼りにできるのは、自分だけだと知っておる。
実弟(おとうと)のみならず、庶兄(あに)にさえ、命を狙われた身。
身を守る最も確実な方法は何だと思う」

 「独りであれば裏切られることはございません」

 「そのとおり。秘密も命も守られる。一人であれば。
だが、戦も何も出来ぬからな、一人では」

 「そこが辛いところ」

 仰向けで腕枕のまま、信長は竹丸の肩をぐっと握った。

 「儂に従う奴は徹底的に面倒をみてやる。
従っている間はな」

 「従わない者は?」

 「同じだ。徹底的に面倒をみてやる。徹底的に」

 「それが問いへのお答えなのですね」

 「そういうことだ」

 竹丸の喉がごくりと鳴った気がした。

 「儂が恐いか?」

 「殿の御心の純なことに付け入って、裏切りを企てる者こそ、
恐ろしゅうございます」

 竹丸がいかにも話を打ち切ろうという雰囲気で身を寄せてきた。

 「儂を裏切ってはならぬぞ。竹が裏切ったならば、」

 「有り得ませぬ。左様な御言葉、聞くも嫌でございます」

 珍しく竹丸が自ら口を吸ってきた。

 君主と褥で肌を合わせていながらも、
好いた相手は信長ではない、
未だそのような経験はないとサラッと口にし、
嫌味に聞こえないのが竹丸だった。
あくまでも主君と小姓で、
枠から出ようという態度が微塵もない。
頭の悪い者ほど褥で点数稼ぎに走ろうとするが、
竹丸は端然としたものだった。
回転が良いので会話も滑らかに進む。

 いつの日か、迎える(つま)の為、
恋慕の想いはとってあると竹丸は準備していた答えを述べたが、
人の心が思うに任せぬことは人心の機微に関心の薄い信長ですら、
知っている。

 果たして竹丸の真意は何か、
もしや、誰か好いた相手が居るのではないかと、
信長の思考を疑問が過った。(よぎった)
 しかし、竹丸が置かれた世界に色恋の自由はなく、
あるとするのなら、
君主が授けた室を迎えた後に引き入れる側室でしか有り得ない。
 十三で出仕した竹丸が、
今から側室を招く算段をしているとは思われなかった。

 まあ、照れ臭いのであろう、好いた女子(おなご)が居たにせよ、
褥で主に話せる種類のことでなし……

 年齢を思わせない賢さを見せる竹丸も、
いざ、そちらの話になればまだ幼いと見て、
大人びた口調との対比で、いっそう愛しく思われた。

 「竹丸、今宵は覚悟しておけ。
泣いて許しを請うても、許しはせぬぞ」

 「泣くか泣かぬか、お試しくださいませ」

 竹丸が澄んだ目で信長を見、涼やかに微笑んだ。
元服はまださせられないと、信長はふたたび思った。

 


 



 




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