第73話 三河 吉田 岡崎

文字数 1,567文字

 五月二十八日、
京での政務を終えて信長と三千の軍勢は岐阜へ下向した。
 その七日後、水無月五日には、遠江に武田勝頼が攻め寄せ、
小笠原長忠の居城、
高天神(たかてんじん)の城を包囲したという報告が届いた。

 高天神城救援の為、十四日、信長父子は岐阜を出立、
三日後に三河吉田城に着陣し、城代の酒井忠次と合流した。
 
 吉田城は元は今川氏の城であったのを、
今川家と松平家が争う中で目まぐるしく統治者が変わり、
桶狭間の合戦以降は徳川家の支配となっているものの、
この時期、武田の猛攻により、徳川は劣勢にあった。

 吉田で軍備を整え終えると、
同日、慌ただしく、信長父子は、
西北へ十里の徳川家の持ち城、岡崎城へ向かった。
 吉田と異なり、こちらは山と丘ばかりで海はない。
同じ三河でもずいぶん地勢が違っている。

 岡崎で信長は七年ぶりに長女、徳姫と会った。

 信長と家康は同盟相手であって、互いに舅同士の関係だった。
十一年前に信長の長女、徳姫と、
家康の嫡男、信康との間に婚姻同盟が成立し、
約束通り徳姫は八歳で嫁ぎ、
この時、十五になって、岡崎城に住んでいた。
 家康もまた、幼い頃には織田家の人質として二年間、
尾張で過ごした身の上で、信長とは深い(えにし)の間柄だった。

 仙千代から見ても、
信長、信忠が徳姫と会った時の喜び様、
徳姫の嬉しそうな顔は印象的だった。

 もしや生涯、二度とは会えぬかもしれぬ父娘、兄妹……
戦の出馬での三河とはいえ、ほんに良かった……

 傍に侍っている仙千代も、徳姫の涙につられ、
視界が曇った。
乳母や侍女、家臣を連れての輿入れとはいえ、
信康の生母は、
桶狭間合戦で信長が首級を討ち取った今川義元の娘であって、
わずか八歳で他国のそのような境遇に身を置いた姫を思うと、
数えの十三で岐阜の城に仕えた自分とは、
比べられない心細さであっただろうと思いを馳せた。
 
 戦況をはかり、二晩岡崎に泊まった後、
十九日、信長、信忠が今切(いまぎれ)の渡しを渡ろうとしていた時、
小笠原長忠が逆心を起こし、
武田勝頼を城に引き入れたとの報せが入った。
 父子は打つ手もなく、吉田城へ引き返した。

 吉田は海浜の城で、城の裏手は川になっている。
酒井忠次は信長一行に、
新鮮な海の幸、川の幸、山の幸で饗応した。

 「今は戦の最中(さなか)、気遣いは御無用」

 信長が言おうとも、家康の命を帯びているのか、
忠次の接待攻勢は止もうとしなかった。
 そこへ、信長父子がやって来ているということで、
徳川家康が浜松から吉田へ出向いてきて、
信長に来援の礼を述べた。

 信長は高天神城救出に間に合わなかったことを心苦しく思い、
今後の兵糧代として黄金を皮袋に二つ、馬に付けさせ、
家康に贈った。

 家康は吉田城で、信長父子を前に、
皮袋一つを家臣二人に持ち上げさせ、開かせた。
 非常に純度の高い黄金で、家中の者達が見物に押し寄せ、
誰もが目を瞠り(みはり)、驚いた。

 徳川様の御心中(ごしんちゅう)、測り兼ねはするものの、
最も邪魔にならぬはいつの世も黄金か……

 信長父子に挨拶をする為、わざわざ国を跨いでやって来て、
ひたすら平身低頭、笑顔で接する家康に、
仙千代はしみじみと、苦労の身に着いた人だと思った。

 当初、対等であったはずの織田と徳川の同盟が、
この頃には事実上、君主と臣下のようになっていた。
信長にとって黄金を贈ることは威勢を示すことであり、
受ける家康は賜る立場ということを臣下の前で明確にされた。

 殿が虎、帝が化け狐であるのなら、
徳川様は何だろう……

 四角い顔でぎょろっと大きな目、その面立ちは、
ちょっと狸に似ていると仙千代は思い、
莫大な黄金に、
暑さばかりでもない汗をかいて恐縮している様を見て、

 両手に木の葉ではなく、(きん)を持っても狸は似合う……

 と、内心、可笑しかった。

 不発に終わった高天神城救出だったが、
岡崎の城では徳姫と七年ぶりの邂逅を果たし、
信長、信忠は、岐阜へ帰陣した。




 
 


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