第110話 赦免願い(3)

文字数 1,316文字

 「仏を信仰する者が、
生きながらにして餓鬼道に落ちるとは皮肉なものよ。
のう、竹丸」

 梅雨はとうに明けていた。
木陰であっても日差しが強く、日中は暑さが募った。
 蝉時雨が時に声をかき消す。

 この時は、
仙千代と竹丸が大団扇で総大将と副将を煽いでいた。

 「降伏をし、
長島を開け渡すなら命は助けると再三再四、
殿が大御心で仰せになっているものを、
長きに渡り受け容れず、あろうことか刃を向けて、
甚大なる損害を我が軍に与え続けたその悪行は、
決して許されるものではございませぬ」

 信長の憤懣を汲み、強く迎合することにより、
その苛立ちを抑制できると知っている竹丸の物言いだった。

 「耳を澄ませると似非(えせ)仏法の阿鼻叫喚が聴こえるわ、
女子供を盾にして巻き添えにする生臭坊主ども、
これを許せば戦は終わらぬ。
徹底的に奴らの面倒を見てくれる。徹底的にな。
それでも顕如がまだ逆らうと申すなら、
顕如こそ地獄の主だと世に知れるであろう」

 「仰せのとおりでございます」

 竹丸に頷いた信長は次に仙千代を見た。

 「時に般若経を認めて(したためて)おるようじゃな、こちらでも」

 「はい」

 「経を書き写すは面白いのか?」

 やはり髭を撫でながら、訊く。

 「未熟者ゆえ、何事かに集中致しますと気が晴れまする」

 「ふうむ、ならば常は心中、雲っておると申すか。
それは困った。困った奴じゃの、仙千代は」

 言葉尻だけを捉えれば、
信長は不興を露わにしたように聞こえるが、
表情は柔らかく、笑んでいて、
仙千代を困惑させて愉しんでいることが傍の全員に見て取れた。

 「何にせよ、長島の本城も長くは持たぬ。
現状、城内は人で溢れ返っておる上に、
篠原城から千人が新たに加わる。
井戸の水は枯れ、兵糧どころか、馬まで食い尽くし、
死体は腐臭を放って、人糞の捨て場さえ無い。
まさに地獄じゃ。生き地獄。哀れなものよ」

 憐みが本心か否かは別として、
信長は大袈裟に(かぶり)を振った。

 風を送りつつ、仙千代の脳裏に、
幼い頃、施餓鬼の時に檀家の寺で見た地獄図絵が浮かんだ。

 餓鬼道……
仏の道の三悪道……
不浄の場所で飢えと渇きに苦しみ、
しきりに水や食料を欲するが、
腹は膨れ上がり、喉は針のように細く、
飲み食いしようとすれば水は濃い血膿となり、
食べ物は炎と化す……
姿は天日に干されたように痩せさらばえる……

 殲滅戦はいよいよ最終局面が近付いている。
信長が描く「根切」の図は兵糧攻めを「仕上げ」たら、
そこから先が本番だった。
 
 夏の午後の暑さのせいばかりでなく、
仙千代は汗が噴き出した。
 見ると、いつも端正に表情を保っている竹丸も、
額にじっとり脂汗を浮かべていた。
 
 信忠は煽がれているせいなのか、涼やかなままだった。
茫洋を装っても、
眼光の純な煌めきには一抹の迷いもなく、
殲滅戦への疑問も気後れも、一切浮かんでいなかった。
 仙千代は、
信忠がこれほど信長に似ていると思ったことは、
かつてなかった。

 この日も、翌日も、翌々日も、
長島の本城へ渡ることを許された日根野が、
誓文を守り、織田軍に内通し、門を開けることはなく、
約束は反故された。
 信忠が見抜いたとおり、一揆軍の総大将、日根野は、
篠原城で食糧に事欠き、
口先三寸で、降伏の真似をしただけに過ぎなかった。





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