第169話 河内長島平定戦 東風の主

文字数 1,570文字

 長秀、秀政、竹丸から主立った話は出尽くしていて、
兜の緒を締め直す信長の心積もりはもう決まっている。
 張り詰めた空気に瞬間、
風穴が空くのも悪くないかと思い、
信長は仙千代に、ふざけるでもないが茶々を入れた。

 「仙。早々に椀が空になっておる。
此度も鼠が来たか。
仙の椀から盗み食いをする大鼠が。
仙の家もかつて鼠が屋根を齧っておったな。
今日も鼠が出たか」

 鼠が粥を食べてしまったと言い張った病床の仙千代を
長秀と秀政は知らず、
当然、不思議そうにしたが、
細かな突っ込みはせず、朝餉をちょうど食べ終えた。

 仙千代め、
ここは茶室かというような顔をしくさって、
いったい何を考えているのやら、
憎たらしいほど可愛いだけに、
少しばかり揶揄って(からかって)みたくもなる……

 既に朝餉を全員食べ終え、戦闘準備の(とき)だった。

 「鼠は馬鹿ではありませぬ」

 信長にしてみれば、
慈しむ感情ゆえの揶揄い(からかい)半分だったが、
仙千代のみ幼児(おさなご)扱いをされたように思い、
本人にしてみれば面白くない気持ちを抱いて、
声質はいつも通り穏やかであるものの、
毅然とした言葉遣いを仙千代は選んだ。

 「鼠は弱い。
それだけに目端が効き、小さな変化も見逃さず、
上手く逃げ、安泰となれば、
一組が年に四百五百と子を為しまする。
絶滅させるは甚だ困難でありますれば、
返す返すも注意を払い、平静を装い、
罠に追い込むが肝要かと存じます」

 一組が年に四百五百と子を為し、増殖と聞き、
野性育ちを自負する信長もゾッとして、肌が泡立った。
 またそれを語る仙千代も仙千代だった。
信長から質しを受けなければ穏やかな風を纏い、
澄ました顔で白湯を飲んでいるばかりであったのに、
いざ訊かれれば淀みなく思うところを伝える仙千代は、
信長の知らない仙千代で、
信長に鼠、つまり一揆衆への嫌悪を、
敢えてふたたび起こさせるとは非情、酷であるとも言えた。
 しかし、いざ目の前の仙千代は、
またも相変わらずの東風(こち)に包まれているのであるから、
怜悧が隠しようもない竹丸などより、
よほど性根は底知れず、
図太いものを持っているのかもしれなかった。

 いつ、どの時点で、何をどう、覚悟したのか……
根切りと聞いて顔を白くしていた仙千代は、
今、ここに居ない……

 仙千代の恍けて(とぼけて)いるようにも映った姿は、
確かに信長の緊張し切った神経を一瞬、和ませたが、
その言葉に図らずも厳しい現実を再度、注視させられた。

 「小さな変化も見逃さず、上手く逃げ……。
成るほど。確かにそうだ。確かに」

 平静を装い、罠に追い込むことが肝要であると、
一揆衆を鼠に喩え淡々と語る仙千代は、
しょっちゅう写経をしているが、
根が善良であるだけに、
そうしないではいられない煩悩懊悩を、
抱えているのだろうとも、
信長の仙千代に対する父性は思わせた。

 長秀が総括するように、告げた。

 「仙殿が言われるとおり、……」

 地位でいえば、
佐久間信盛、柴田勝家とほぼ同等の長秀と、
仕えて三年目の仙千代では雲泥の差だが、
時により、
既に仙千代は長秀からでさえ、敬称を付け、呼ばれる。
 信長の寵愛、本人の資質、それらが仙千代を、
他の小姓達とは一線を画す存在だと知らしめていた。

 長秀が続ける。

 「くれぐれも鼠にこちらの魂胆を気付かれることなく、
進めてゆかねばなりませぬ。
一揆勢が立て籠もる長島、屋長島、中江の三城に、
この美味なる赤かぶ漬けを、
差し入れでもしてやりましょうかな」

 常は温厚篤実で鳴らす長秀のその言い様に、
ようやく決着がつくという喜悦を感じ取った信長は、

 「また何と、人が悪い。
儂が知っておる五郎左は正直を絵にしたような男。
目の前の五郎左は双子の片割れか」

 と、窘める(たしなめる)真似をした。

 だが、冗談はここまでで、
信長が白湯を飲み終えるや否や、
同時に仙千代、竹丸が信長に寄り、具足を装着し始めた。

 とうに長秀、秀政は姿が無かった。

 







 

 




 

 



 



 





 


 
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