第378話 志多羅での軍議(12)奇縁

文字数 1,120文字

 「勝利の雲煙(うんえん)……
うむ、心地良い響きだ。
待っておるぞ、煙の雲のたなびきを。
東の空に煙が昇ればこの志多羅でも合戦開始だ。
武田軍を挟撃し、陣城に引き寄せて、
雨あられと銃弾を浴びせるのだ」

 と言った信長は、

 「時に日根野。
此度の武田勢に見知った者は居るか」

 と顔を向けた。

 信長と信玄は直接対決を、
信玄の生前は避け続け、
刃を交えたことが無いのであるから、
当然、首実検も無く、
信忠と松姫の婚姻同盟が成立した際、
信長は岐阜で武田家の使者、
秋山伯耆守(ほうきのかみ)をもてなして、
唯一その一度以外、
武田家の誰をも知る機会が無いままに、
歳月が過ぎた。

 信長の舅、斎藤道三に仕えた過去を除けば、
数多の信長の敵将達と(よしみ)を通じてきた弘就(ひろなり)は、
昨秋、石山本願寺 顕如の許で、
長島願証寺の一向衆を率いて戦った。
 亡き信玄の継室は顕如の正室の姉で、
本願寺と武田家は堅く手を結び、
長年信長を悩ませた両輪だった。

 「武田家と本願寺は、
深い縁により結ばれております故、
上様の御力を排除せんとした、
足利幕府からの御内書を両家が共に下された折には、
不肖この日根野も、
顕如法主の本意状を携えた坊官警護で、
甲斐に出向いたことが数回なれどございます。
大将の一人で信玄の異母弟である武田信実(のぶざね)こと、
河窪信実は文武、人柄、
申し分のない見識深い武将にて、
家中の誰にも信が厚く、
手強い相手だと、
強く戒めておるところでございます」

 仙千代はその言葉から、
弘就と信実の間には、
武士(もののふ)としての友誼があったのだと知った。
 しかし今では敵味方になってしまった。

 「河窪を討ち取れば、
武田軍はさぞ、消沈するであろうな。
藤助、河窪信実は何処に配されておる」

 「鳶ケ巣山砦にございます、
間違いございません」

 信長は満足気に頷いた。

 「して、日根野が甲斐に出向いた折の、
城内の空気は如何であった」

 「怪異なものでございました」

 「ほう。怪異」

 齢、六十に近い弘就は、
未だ筋骨衰えず、
よく鍛えられた身の佇まいが、
いかにも正しいものだった。
 眼光は深みを帯びて、
多くの生き死に、裏切り、
また悲しみを見てきた眼差しだった。
 美濃を信長に追われ、
浪々の身となって以降も、
常に第一線で戦歴を重ね、
武辺の一族の長として、
名が地に堕ちたことは一度としてない。
 ただ、勝運に恵まれなかった。

 上様に敗北し続けた日根野殿……
なれど遂には織田家に降りられた……
今となってはこれほど心強い御味方は、
なかなか居らぬ……
御兄弟を斬殺された鷺山殿、
長島で多くの連枝衆を討たれた上様が、
恨みも憎しみも恩讐の彼方へ流されて、
戦国の世は涙雨の降らぬ日は無いのだろうか……

 怪異などという、
戦場ではまず聞かれない(ごん)を発した弘就に、
それこそ戦国の奇縁を仙千代は見た。


 
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