第373話 志多羅での軍議(7)吉川の郷

文字数 1,219文字

 信長の急く時の癖が出た。

 「言上(ごんじょう)せい!」

 康政は豊田藤助に、
信長の質しに答えよと指示したが、
信長は脈絡無しで命じ、問いを端折った。

 藤助は瞬間、ちらと康政を見たものの、
さっと背筋を伸ばし直して、
雷鳴に負けぬ音声(おんじょう)を発した。

 「我が一族は、
長篠に二里ばかり南の、
吉川なる山間(やまあい)が代々の在所にて、
一帯は草の一茎(いっけい)まで見知り越しております。
長篠城の南は二つの川が合わさって、
対岸は狭小の扇状地となっており、
その地の背後には上様御承知置きの通り、
武田の砦が五つ構築されております。
本日は朝より、雨に身を隠しつつ、
吉川を訪ね、
先程、帰参した次第にて、これを、……」

 藤助は懐から、
油紙で包んだ図を取り出して、
信長に向け、大絵図の横に広げた。

 「吉川では、
()(きこり)を伴って、
樵に扮し、五砦を隠れ隠れ、
検視して参りました!」

 仙千代は得心した。

 そうか、
藤助殿は確かめに行っておられたのか、
武田の包囲が如何なる現況であるのかを……
豊田家の長老や女人、
子らが住まう吉川の郷が、
武田の軍勢に蹂躙されているやもしれぬと、
藤助殿は危ぶんで、
気が気でなかったのであろう、
と同時、在所の安全を確認し、
辺りの情勢を確と(しかと)検分して、
戻って来られたというわけか……

 部隊を率いる大将なれば、
このような振舞はけしてしないが、
地侍にも等しい藤助あたりの身分であれば、
情勢探索を口実に、
目と鼻の先の里を見に戻る位は、
当たり前にあった。

 とはいえ、樵を案内にして、
敵の拠点を調べ、
雨に濡れぬよう、
油を染ませた紙に包んで持って帰ってきたことは、
実に好ましい……
上様も身を乗り出しておられる……
瞳が輝いて……

 藤助を見る信長の眼に、
抑えられない好奇心があった。

 「続けよ!早う(はよう)!」

 「はっ!言い上げ仕りまする!
第一に、五つの砦の兵力は、
けして多くはございませぬ!
主郭の鳶ケ巣山(とびがすやま)砦が凡そ(およそ)三百、
久間山が二百、中山もやはり二百。
姥ケ懐(うばがふところ)君ケ臥床(きみがふしど)も二百。
合わせて千を超えるか否か。
 第二に、
砦は連携を為しておりませぬ。
長篠城を睥睨(へいげい)せんと、砦は山頂や尾根にあり、
具に(つぶさに)連絡を取り合うことは困難。
唯一、姥ケ懐のみ山麓にございまするが、
これとて、むしろ他の四砦から孤立しておる上に、
長篠の城内から見下ろされ、
砦というより陣と言うべき脆弱さ。
 第三は、兵も馬も、
困憊の色を強めております。
砦と砦の間は難路にて、
主郭の鳶ケ巣に、
兵糧を取りに行くにも苦役を強いられ、
慣れぬ土地と長雨に倦んでおる様子。
士気が高いとは、どうにも見受けられませぬ」

 一気に語った藤助は、
ようやく一呼吸して、
康政がグイと差し出した竹筒の水をゴクッと飲むと、
信長が前のめりになっている様子に、
尚も続けた。

 信長は極度に集中していた。
湿気、暑さが満ちていて、
信長自身、紅潮の面持ちであるのに、
汗がすっかり引いている。

 一方、藤助の報告に、
やはり興奮を隠し切れない仙千代は、
もう要らぬはずの風を信長に向けて送り、
しかも扇ぐ速さが増していた。









 
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