第140話 小木江城 睦言

文字数 1,395文字

 来るのではなかった、
あのような話を聞くのなら……

 仙千代が受けている寵愛が如何ほどのものなのか、
分かり切っているはずなのに、
また自身も、亡き清三郎や、
三郎、勝丸といった寵童を閨房に召し寄せているくせに、
いざ、仙千代が、
どれほど父を悦ばせているかを聞かされれば、
胸が騒ぎ、
誰にもぶつけられはしない憤怒や悲哀がこみ上げる。

 信忠は苦虫を嚙み潰したような顔になり、
一呼吸の後、大きく息を吐いた。

 またしても声が聴こえた。
今度は父と仙千代だった。

 「……嫌だと言っておりまする」

 「左様なことを言わず」

 「嫌でございます」

 「我儘もたいがいにせよ、儂の(めい)がきけぬのか」

 「嫌なのです、今は……」

 仙千代の返しに媚はなく、
ただ信長の言い様に甘い含みがある。

 「顔を背けず。こちらを向いて」

 「おやめください……」

 「仙千代、仙」

 「嫌なものは嫌なのじゃ……」

 信長の執拗な振舞に仙千代が苛立ちを見せ始めている。

 まるで良人(おっと)と若妻だと信忠は思った。
このような父を他では知らない。
怒りの沸点が低く、常に人を見下し、誰かの機嫌をとるなど、
金輪際有り得ない、それが父のはずだった。

 信長は正室、鷺山殿には敬意をもって接し、
ごくまれに言い争いを以前はしたが引き下がるのは信長で、
鷺山殿への深い親しみと信頼は一貫していた。
数多の側室達には穏やかに接し、分け隔てなく情けをかけ、
子を為してくれる感謝を忘れることがない。
 問題があるとするなら、子供達に対する扱いで、
兄弟間の交流は、
主君と臣下としての関係性に於いてしか認めることをせず、
特に四男以降に関しては連枝衆の一員、
つまり縁戚縁者としての立場で遇されているとしか見受けられず、
まして、看病をし、機嫌をとって甘い顔をするなど、
考えられもしない。

 仙が相手であればそれをするのか、
父上は……

 知っていたはずのことであるのに、
この場に足を運んだ後悔が襲う。

 「……んん、嫌だと言っておりますのに……んん」

 「そうじゃ、そのようにすれば良い。
さすればこの儂も嬉しいのだ……」

 つい先ほどまで居並ぶ大将達に、
大音声(だいおんじょう)で檄を飛ばしていた男が猫撫で声で、
何やら愛童の機嫌をとっている。

 斯様な真昼間から、戦の陣で!……

 嫉妬も嫉妬で認めるが、
命のやりとりをしている戦場で、
日の高いうちから総大将が、
寵童を相手に何をしているのかと情けなくなり、
信忠は踵を返した。

 その信忠に竹丸が不思議そうな顔をする。

 「副将様、如何なされたのです」

 「今日は気が向かぬ。陣に戻る」

 「万見の部屋に既に着いております」

 竹丸は信忠の思いを知っている。
信忠も竹丸の思いを知っている。
 であるのに、
信長が仙千代と睦んでいる場に案内しようという竹丸の気持ちが
分からない。

 いつも見慣れている故に麻痺しているのか、
それはそれで気の毒なことだ、
だが儂はそんなものを見るのは御免だ!……

 信忠が竹丸に背を向けた時、
声を聞き付けたものか、信長が呼び掛けた。

 もとより仙千代の部屋は開け放たれていた。

 「副将殿か!こちらへ来られるが良い、
ちょうど今、仙千代も起きておる」

 信忠の小姓でもあった仙千代を見舞ってやればどうかと、
信長から予め、確かに水を向けられていた。

 先ほどまでの睦み合いの名残りを漂わせた二人の姿を、
目の当たりにしなくてはならぬのかと、
信忠は気を重くしながらも、竹丸に促され、歩を進めた。


 

 
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