第292話 土倉商(4)

文字数 820文字

 汗が引き、
静穏な風情に戻った慎ましやかな仙千代、
剛毅な気配に、
根の正直さを隠しもできない彦七郎、彦八郎、
三人に見入りつつ、
信長は仙千代の価値をあらためて知った。

 愉快で堪らぬ!
仙千代が我が掌中にあることを、
いったい何に感謝すれば良いのか!……

 四年前、
年の瀬の観音堂を通りすがった時、
ふと目を遣った先で、
銀杏(いちょう)の葉と戯れていた素朴な美童が、
聡明でありながら努力を惜しまぬ質であり、
敬愛、慈愛の心を豊かに備えていたことは、
僥倖以外の何ものでもなかった。

 儂は運が良い!
強運であること、この上なしじゃ……

 しかし信長は表情を変えなかった。

 「ま、左様な観察眼は交渉事であれ、
合戦であれ、なくてはならぬものだ。
此度は運が良かった、
寺の件が上手く繋がった。
故郷の寺なれば、菩提寺なのやも知れぬ。
また、横倉は帰依の思いが強いのであろう、
豪商とて、
寺を建て直すには多大な困難を伴ったはず。
そこを仙千代は突いた。
勘の良さは、なかなかだ」

 彦七郎が、

 「恐れながら」

 と、言い、信長が発言を許すと、

 「仙千代は、幼き頃より、
見聞きしたことを何かにつけ記しております。
記そうと思えば記憶に刻み付けるもの。
その癖が生きたのではないかと思われます」

 と、物心つかない頃からの仲であるだけに、
仙千代への自慢混じりの情を覗かせた。

 確かに仙千代は、
岐阜城へ出仕したばかりの昔、
広小路堅三蔵(ひろこうじたてみつくら)の汚職を、
図らずも暴いた功績により褒美を与えると信長が言い、
所望は何かと尋ねたら、
困惑の果てに、健気にも、
紙を欲しいと答えたものだった。

 「仙千代は今も日々、
出来事を綴っておるのか」

 「はっ、可能な限り」

 「いずれ、見せよ」

 つい、甘い口調が出てしまった。

 「困りまする」

 「何ゆえ困る」

 「困るのであります」

 「いや、儂は困らぬ」

 ここで勝九郎が、
わざとらしく小さく咳をしてみせ、
信長はようやく、

 「書状を読み上げよ」

 と、ふたたび、命じた。

 

 




 



 



 

 

 

 

 

 
 

 

 

 


 





 
 
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