第1話 元亀三年 初陣の朝

文字数 1,304文字

 元亀三年文月の十九日、
浅井長政討伐の為、信長、信重父子は北近江へ向かった。

 室町時代に確立された出陣の儀式は厳密だった。
非常に事細かに決められている。
 生死を賭けて戦場に向かうのであるから、
日ごろ、神仏の類いをさほど気にしない信長であっても、
兵達の士気を高める為、仇や疎か(あだやおろそか)にはできないことだった。

 南面した陣幕の中で総大将である信長が中央の席につき、
席次は信重、一族、重臣達と続き、
三献の儀式が執り行われる。

 織田軍では信長に万事、決定権があり、
信長自ら指揮を執るので、
軍師ではなく、
歴戦の古豪が式典を司った。

 膳に置いた土器皿(かわらけ)に打ち鮑、勝ち栗、干し昆布が
盛られている。
 これが、

 「打って勝って喜ぶ」

 という縁起を表していて、食べる順番が決まっている。

 信長が打ち鮑を口にすると、
三段の盃のまず一段目に酒を注がせ、
次に勝ち栗を食して二杯目の酒を飲み、
最後、昆布を食べて三の盃に酒を注がせ、飲み干す。

 ここで総大将が兜を被り、
左手で弓を持ち、右手で軍扇を開く。

 出陣の際、
儀式に於いて少しでも違ったことをすれば忌み嫌われる。
総大将の馬が一歩目を足踏みなどしようものなら、
陣を一周し、再度、やり直す。

 立ち上がり、整列している兵を前に総大将が、

 「えいえい!」

 と(とき)の声を上げると、兵達が、

 「オー!」

 と叫び、呼応する。
これを三度繰り返し、世話をする家臣達はすべて左回りで進退する。

 最後には土器を割り、総大将が馬に左から乗り込み、
儀式は終了する。

 勇ましくも厳かな出陣の儀を留守居組として眺めた仙千代は、
出立組の中に居る竹丸や三郎をただ羨ましく思った。

 昨年の末、
儀長城で出逢った時の信重は幼名で、奇妙丸だった。
それが今や、具足初めを許されて、総髪から月代(さかやき)となり、
朱で揃えた鎧兜が芦毛の愛馬に映えて、いかにも凛々しく、
寿ぐ言葉を掛ける機会すらただの一度も無く、
一瞥さえもされない今の自分との距離を思い、
仙千代は涙の滲む目で信重の晴れ姿を見詰めた。

 成れるなら三郎に成りたい、
三郎に成って、若殿にお仕えして、
盾にも捨て石にも成りたい……
若殿をお護りしたい!……

 叶うはずもない夢を描いて、仙千代は信長、信重を見送った。

 いつの間にか、心の中で信重を思う時、
勘九郎ではなく、若殿という呼び方に戻ってしまっている。
信重に二人の時には名を呼べと言われ、
天にも昇る嬉しさだった。
 嫌悪され、捨てられた後は、
徐々に呼び方が戻ってしまっていた。

 若殿、行ってしまわれた……
この次、いつ、お帰りになるのか……

 今や天下に手をかけつつある信長の権威と威光は、
分かっているつもりではいる。
 鵜飼いの宴の夜以降、幾度となく肌を合わせ、
流石に今は信長の寵愛も理解している。
 しかし信長と信重が並べば、意識は必ず信重に向いてしまう。
仙千代の思いの主は信重で、

 どうか、御無事で!……
御健勝をお祈りいたします!……

 と胸中で叫び、その後に続く言葉は、

 若殿!……

 だった。
 今日に至る信長の艱難辛苦の道程を知らない仙千代ではないが、
不思議と信長は不死身のような気がしてならず、
生きて帰ってと願う相手はただひたすらに信重なのだった。














 

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