第345話 熱田神宮(4)

文字数 833文字

 戻った仙千代を本陣で見掛けた竹丸は、

 「放っておけば良かった。
上様にあの者の程度をお知らせする契機となった。
仙はお人好しだな」

 と、仙千代の肩を突いた。

 「蟻の集団に一定数の怠け者が居て、
よく働く蟻達がやられた後は怠けていた蟻が俄然、
働き出すという話を聞いたことがある。
人の世も、
そのようにして成り立っておるのやもしれん」

 と応じた仙千代は言い返された。

 「世が平らかになればそれも良い。
今はまだ、その時期ではない」

 「うむ……」

 竹丸の言葉には一理あり、耳を傾けた。

 「あの者は大名家の縁者。
ああした程度でも家臣が支えてくれる。
が、上様の御側に置いて役に立つかといえば、
推して知るべしだ。
先程も尋常ならば一度で済んだ」

 磨き上げられた鏡のような感性が、
竹丸にはあった。

 「疲れんか?
いつも自分を律して、非の打ち所がない務めぶり」

 「仙とて同じであろう?
努力の上にも努力。そのように映る」

 「儂は……どうかな。不器用なのだ。
曖昧、雑多、混濁のまま、やって来た。
遮二無二なだけだ。
生れる時も場所も何も選べはしない。誰も。
答えはない。ただ……」

 「ただ?」

 「父上、母上が大好きじゃ。
姉上達も妹も。
恩を返し、皆で笑って暮らす。
その一心でここまで来た。
それ以外、何もないんじゃ、何も……」

 先程の兄小姓の言葉ではないが、
竹丸は一人っ子だった。
 血の繋がらない姉妹達とはいえ、
豊かでなくとも賑やかに暮らした万見家と、
育った家は全然違った。

 武田勝頼が侵攻している三河へ明日は発つという日に、
本音とはいえ、感傷的な物言いをしてしまった上に、

 竹丸を寂しがらせることを言ってしまったか……

 とも思い、仙千代は竹丸をふっと見た。

 竹丸は澄んだ眼差しで、前を見ていた。

 辺りは潮の香が漂い、
潮騒に混じり、熱田の森の鳥が囀って(さえずって)いた。

 いつか大人になった時、
この日、この今を、
どのように思い出すのだろうと仙千代は想像し、
今一度、竹丸の横顔に眼差しを向けた。



 
 

 



 



 



 

 

 

 

 


 

 


 

 


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