第401話 志多羅の戦い(20)はなむけ②

文字数 753文字

 信長は信春に目線を射たまま、
にじりとも動かなかった。

 信春は少ない従者を伴っていた。

 逃す者は逃し、
一兵でも多く勝頼に付けたのか……
今ここに居るのは、
馬場殿と共に死地へ赴くことを望み、
馬場殿が何を言ってもきかぬ、
馬場殿と心体一つの者達だ……

 消えたはずの信春が、
敗北の地に取って返して出現すると、
一様に連合軍の兵は驚愕し、
墨絵のような静寂となり、
すべての動きが止んだ。

 思わず仙千代は、
茶臼山の崖に張り出した大木の幹に摑まって、
一寸でも信春に近付こうと身を乗り出した。

 信長の視界を妨げたかもしれないが、
頭から消し飛んでいる。
 信長も叱りはしなかった。

 信春は小高い段丘に馬を上げ、
叫んだ。

 仙千代は必死に耳を凝らした。
いくら声を集めても、
信春の絶叫は信長本陣まで届かなかった。

 が、後に聞いたところでは、

 「我は六孫王経基(ろくそんのうつねもと)の嫡孫、
摂津守(せっつのかみ)頼光より四代の孫、
三位(さんみ)頼政の後練 馬場美濃守信春という者なり!
討って子々孫々の功名にせよ!」

 と名乗り、
辺りを睥睨したのだという。

 鉄砲隊に未だ、十分な薬玉はあった。
しかし、砲弾を向ける者は居なかった。
 四方から駆け寄った十数騎ばかりの兵の槍が、
腰刀に手を掛けようともしない古豪の身体を突いた。

 仙千代は咄嗟に振り返り、
信長を見た。

 その眼は澄んで、一点の曇りも無かった。
信長はただ、発した。

 「我が軍が国を超え、
信濃へ立ち入ってはならぬ。
逃亡兵は深追いせずとも川へ落ち、溺れ、
または飢えと渇きで命を落とすであろう。
夕刻が近い。
これにて合戦終いとする!」

 今からでも大規模討伐軍を編成すれば、
勝頼の息の根を止めることが、
出来ないではなかった。

 しかし信長はしなかった。
 忠に生き、名を惜しみ、
比類無き働きを見せた老将に、
敵軍の将からの(はなむけ)だった。




 

 

 

 


 


 
 


 

 
 
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