第38話 逢坂

文字数 1,116文字

 岐阜を出て四日目、仙千代は近江の(うみ)を見た。
淡水湖で、塩辛さは無いという。
 試しに一口すすってみると、確かに真水で塩分は無かった。

 「大きな大きな池なのじゃなあ!果てなく広い!
おーい、大湖(おおうみ)の主、居るなら出てこーい!」

 仙千代は一人、春爛漫の午後の湖畔に立ち、声を上げ、
しばらく景色に見入ると、
やがて湖面に向かい手を合わせ、拝んだ。

 万見の養父(ちち)すら来たことのないこの大湖を見、
いよいよ京へも上がる。

 父上にも母上にも、この眺め、お見せしたい……
しっかりと目に焼き付けて、岐阜へ帰ったら、
手紙(ふみ)認めて(したためて)、絶景をお伝えしよう……

 彦七郎、彦八郎がやって来た。
 二人は近江に前回も遠征していた。

 彦七郎が言う。

 「この逢坂は、京が目と鼻の先、しかも稀に見る景勝の地。
だが、延暦寺、石山寺と、
我が殿の御威光に傷をつけようという、
けしからん者どもの巣窟も直ぐ間近。
延暦寺の成敗は成ったが、
石山寺の顕如という生臭坊主は武田信玄と互いの正室が姉妹(あねいもうと)
陰で気脈を通じ、殿を破滅させんと狙っておる。
浅井の城も程近く、まさにここは水を湛えた火薬庫じゃ」

 仙千代も頷いた。

 「うむ。物見遊山気分でおってはいかんな」

 確かに岐阜では見ない顔触れの土豪、国士が道中、
信長の宿泊所へ挨拶で顔を出す。
 竹丸や仙千代は、信長からいつ声が掛かっても良いように、
また警備の面からも、信長の後ろに控え、客人に相対している。
 表情、所作、話し声、目の動き、仙千代は見逃さないようにした。
信長の感情や意志に敏感になっておくことは当然、
第一なのだが、来訪の諸将の心の動き、本音というものも、
あんがい、透けて見えることがある。
 
 この一年少々で仙千代は、文武の学び以外にも、
多くの人の名や顔、その其々が抱える地縁血縁、
諸事情といった背景を、ずいぶん覚え、
また意識して記憶するようにした。
 
 先ほど、彦七郎が話したように、
例えば、信長が神仏への冒涜を繰り返したとし、
一向一揆を陰で指揮する浄土真宗本願寺派第十一世宗主、
顕如は、親鸞の嫡流、正室は武田信玄の実妹、
公卿の三条家、元は近江守護の六角家と親しく、
六角家は志賀の陣で織田家に敗れて一旦和睦、
辿れば鷺山殿とは縁戚関係云々と、たとえ未見の相手でも、
この程度は知っておかないと、小姓の仕事は務まらない。
 小指南、小姓頭といった立場になると、
主君から意見を求められることもある。
主が会う客人全員を把握していることは当たり前のこと、
主には会わせられない訪問相手にも会い、
主の密談の場にすら居合わせるのだから、
朝昼晩と常に身も心も全稼働状態だった。

 竹丸が仙千代を呼んだ。

 「いつまで遊んでおる。御来客に殿がお会いになられる」

 「直ちに!」





 
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