第71話 賀茂祭り(2)

文字数 1,360文字

 信長が寝所で酒を飲むことは珍しかった。
とはいっても、元来がさほど好きではない質なので、
嗜む程度で、けして酔うようなことはしない。

 寝所の窓の仄明るい東の空に、山桜と半月が美しかった。

 半月……
残りの半分は何処に置いてきたんだろう……
それとも、恥ずかしくて隠れているのか……

 信長に口移しで酒を二度、三度飲まされ、
酔うというほどではないが少し高揚してそんなことを考えた。

 もしや、これが幸福というものなのだろうか……
敬う人に求められ、扶持を得て、過分に遇され、
家も栄える……
 これの何処に不服があるというのか……

 信忠が清三郎や勝丸と並んでいるだけで、
熱い感情に身を焦がし、
自分の居場所が分からなくなるような苦しみに喘ぐのに、
信長にいくら子が産まれようが他の小姓を褥に上げようが、
事実として受け入れるだけで妬みも嫉みも感じない。
小姓として侍っていれば、
信長がいつ誰とどれだけ閨房で過ごしたか自ずと知れるが、
仙千代が召し寄せられることは甚だ多く、
むしろ、それが不思議だった。

 今や殿は蘭奢待の拝領をも許されたような御方、
そのような御方が何故に……

 と、答えの見付けられない謎解きをしているような思いを抱く。

 気付くと信長が、またも口移しで酒を飲ませようとしてきた。

 「殿の召し上がられる分が無くなってしまいます……」

 本人は最初から飲むつもりがなく、
仙千代の為に口に含んでいるのだから、結局、飲まされた。

 仙千代がわざと恨みがましい顔を作ってみせると、
笑顔が返り、信長はひたすらに機嫌が良かった。

 「よほど愉快でいらしたのですね、今日は」

 「仙千代も」

 もちろん、競馬は頗る(すこぶる)楽しかった。
美しい装束の神官達が名馬を揃えて競い合う様は勇ましくも荘厳で、
しかも織田家の駿馬は全勝だった。
仙千代は応援で叩いている手が痛くなり、声も枯れるほどだった。

 「あのような仙を見たのは初めてじゃ。
燥いだ(はしゃいだ)様子が愛おしかった」

 燥いでいたと言われればそうかもしれないと思った。
何も、あらゆる瞬間を鬱屈して過ごしているわけではないし、
そのような思いでいれば小姓仕事は務まらない。
しかし、信長を相手にした時、
仙千代の心が裸でいることは一度もなかった。
もちろん、信忠という存在が心の底にいつもあり、
それを知られてはならないという意識が働くせいもある。
ただ、それ以上に、信長は畏敬の対象で、
ふとした瞬間、立場を忘れることがあるにせよ、
あくまで特殊な情況、つまり閨房の中でだけだった。

 信長の褥に召されるようになって、二年が過ぎた。
様々な手管を覚えたと仙千代は思う。
とはいえ、まったく気が乗らない日があるかと思えば、
抑えのきかない快楽に任せて振る舞い、
信長を驚かせるようなこともある。
その落差をも信長は楽しんでいるのか、
何をしても何を言っても悦ばれ、
真の意味で叱責を受けたのは、
信忠の小姓達への嫉妬で内腿に(やいば)を立てて傷をつけてしまった、
その一度だけのことだった。

 信長が仙千代の寝間着の裾を開け(はだけ)、その傷を撫でた。

 「斯様なことをして……
儂は仙千代の年頃には行状定まらぬ日々で、
付け家老の平手の爺にしょっちゅう叱られておったが、
我が身を傷付けるなど、斯様な真似をすることはなかった」

 信忠を思い、やってしまったことだった。
自然、話題を移そうとしてしまう。




 
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