第347話 池鯉鮒(1)

文字数 2,070文字

 天正三年五月十四日、
信長、信忠の父子は、
同盟者である徳川家康が待つ岡崎に向けて出立した。

 朝まだきに熱田を出たので、
東へ向かう道程は朝日が眩く、
信長の後ろに付いて馬を進める仙千代には、
信長が後光に包まれているかのように映った。

 しかし幻想に浸るのも束の間、
鳴海、桶狭間を過ぎ、国境の境川を超え、
池鯉鮒(ちりゅう)に入り、
家康の幼少時代からの近習にして、
酒井忠次と並ぶ懐刀の石川数正の出迎えを受けると、
緑深まる初夏の景色に、
在原業平(ありわらのなりひら)が池鯉鮒で詠んだ、

 「

ら衣 

つつなれにし 

しあれば

るばる来ぬる 

をしぞ思ふ」

 という杜若(かきつばた)を折り込んだ歌が思い出され、
僅かな間とはいえ潤っていた心に、
ぴしりと(くさび)が打ち込まれ、
元の緊張に意識が引き戻された。

 信長とほぼ同齢の数正は、
家康が織田家の人質として、
熱田の加藤図書之介に預けられた時には、
既に御付け人として家康を護るべく共に居り、
桶狭間合戦で信長が今川義元に勝利を収めた後は、
織田家と徳川家が同盟を結ぶ際、
信長が住まわっていた清洲城に家康の名代として、
度々訪れ、信長とは旧知の間柄となっていた。

 岡崎への道中、数正から、
東三河の長篠城が武田軍に包囲され、
籠城戦に入ったと信長は知らされた。

 四月末、三河・遠江を侵食され、
失地回復を目指す浜松の家康は、
酒井忠次が城代に任じられている三河南部の吉田城に入り、
勝頼の猛攻に耐え、立て籠っていた。
 家康の存在により、
士気が高まった吉田城を落とすことは困難と見た勝頼は、
北へ軍を戻し、長篠城を標的とした。
 それ以前に、勝頼は岡崎に間諜を放ち、
謀略を計画していたが、策は見抜かれて失敗していた。

 長篠は徳川、武田、両家にとり因縁の地で、
二年前に家康が信長の命を受け、
娘の亀姫を城主の嫡男に嫁がせることにより調略に成功し、
味方に引き入れるまで、
支配者の奥平氏は、
目まぐるしく変わる周囲の力関係の狭間で揺れ動いた。

 長篠城が勝頼との攻防の要になると見た家康は、
今回、信長から送られた二千包の米俵のうち、
三百を長篠に入れ、
やはり信長が渡した黄金で鉄砲を集め、
二百挺を渡していた。

 「長篠の城兵は如何ほどか」

 「五百であります!」

 数正が吠えるように放ち、
今朝の今朝、
忍びから届けられたばかりだという報せが続いた。

 三日前、激しい戦闘があり、
大手門を攻められた奥平側は、
矢、石、銃をもって武田軍を押し返し、
その前日も、一時は城外に出て果敢に戦い、
一昨日は一昨日で、
城に横穴を掘って侵入した武田兵と、
見破った奥平兵との間で衝突があり、
ここでも銃器が大きな力となって敵を撃退し、
既に千は下らぬ損害を武田に与えているという。

 数正は一気に語った。
今回の戦で総大将となる信長を待つ間の焦燥、
はやる思いが、奔流と化していた。

 「武田は吉田城を落とせず、
岡崎城の略取にも失敗をして、
腹いせから徳川の面目を潰す為、
吉田城一帯に火を放った上、
堰を破壊して作物に大きな被害を与えた上で、
吉田城と直近の仁連木城を陥落させており、
東三河を蹂躙しつつ、長篠に至っております。
また昨夜も追出門の前方に望楼を築こうとし、
長篠兵がこれを巨銃の乱射で破壊して、
阻止に成功しておりますが、
相手は一万五千以上居ると見られ、
長篠がいつまでもつか、
油断はできぬところでざいます」

 「部隊を分散させているにせよ、
一万五千の大軍が何故、
五百の城兵に敵わぬのか」

 「長篠城は東西と南を川に挟まれ、
北側は堅牢な土塁、深堀となっており、
容易には近付けませぬ」

 容易に近付けぬということは、
包囲する側にしてみても、
水も漏らさぬ体制が取りやすいということだと、
仙千代は思った。

 「それにしても手際が悪い。
好んで兵を失ったわけではなかろうが、
勝頼は何をもたついている」

 数正も、私見であると前置きをしつつ、
武田の版図(はんと)は百四十万石の大身であり、
兵力も三万五千はあると見られることから、
今回、当初の目論見が外れ謀略が露見して、
岡崎城奪取を諦めざるを得なかった勝頼は、
織田徳川連合軍との決戦を望んだのではなく、
長篠城を手に入れることに、
目標を切り替えたのではないかと述べた。

 「では、
長篠攻めに手間取っておるかに見受けられるは、
我が方を誘き寄せる(おびきよせる)策に非ずと申すか」

 「三方ヶ原では信玄に陽動され、
それこそ大きな痛手を被りましたが、
同じ手をここで使うなら勝頼は虚け(うつけ)にございます」

 数正は信長が尾張の大虚けと呼ばれた若い頃に、
出会いを果たしていた。
 幼い家康、つまり松平竹千代に従って、
熱田に二年暮らした数正は、
北へ僅か二里の那古野城を信長が父 信秀から与えられ、
居城としていた十代の頃を知っていた。

 「ふん、虚けか。
久々に耳にしたわ、その響き」

 数正は一瞬にして顔色を変え、
最大限の恐縮をした。

 「いえ!微塵も他意はございません!」

 懸命な否定こそ、
信長がかつて何と異名をとったのか、
数正がよく知っているということに他ならなかった。

 数正は真っ青になっていたが、
仙千代は信長の背姿だけで、
信長が数正に親しみをこめ、
面白がっていると伝わった。


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