第267話 氏真 来訪(6)

文字数 1,380文字

 仙千代が間近で見た今川氏真(うじざね)は武人の匂いがなかった。
 嫋やか(たおやか)とまでは言わないが、
公卿か坊主であるかのように、
(しょう)(ごう)が感じられない。
 今は歓待の席であるとして、
例の茫洋とした顔を取り繕っている信長はじめ、
いつも通り柔和な面立ちの丹羽長秀、
よく日焼けした朴訥な雰囲気の毛利良勝ら、
織田家の側の面々は、沈静を装っていても、
何処か暴れ馬のような本性が漂って、
おそらく仙千代も、
氏真の目にはそのように映っているに違いないと、
太刀持ちを務めつつ、信長の背後から氏真を見た。

 氏真は先だって「千鳥」の香炉を献上していた。
今日は今日で、
秘蔵の茶器である「百端帆(ひゃくたんぽ)」を持参し、
信長に差し出した。
 他にも名のある寺の僧侶から名品を預かっていて、
手渡そうとしたが、
信長は「百端帆」のみ受け取って、他は返した。
 信長にはそのようなところがあって、
伴天連が多くの貢物を携えて訪ねてきても、
要るものだけを取り、残りは受納しなかった。
 相手はすべて贈るつもりで持ってきているのだから、
貰ってしまえばいいものを、
信長は興味がないものや、
自身の役に立たないものには淡白だった。

 十五年昔のことながら、
今川義元の首級の話にはやはり、なった。
 仙千代が見るに、
信長は氏真に武将としての才覚を認めていないのだから、
果たして今日が文字通り、一期一会になるやもしれず、
桶狭間合戦が口の端に上ることは致し方なく、
むしろ、
それだけは総括しておけなければならない、
二つの家のしこりなのだった。

 「往時は、上様の御配慮をもちまして、
亡父の首級を返していただけることとなり、
今川の者が清須へ拝領に出向き、
駿河へ向かっておりましたが、
なにぶんにも夏のことです故、
東三河の東向寺に埋葬し、
駿河には頭髪など一部を持ち帰った次第でございます」

 「であるか。うむ。夏であった」

 至極あっさりした態度の信長は、
半ば聞き流していた。

 「東向寺は、
父の叔父であります徳順なる者が住職を務めておりまして、
その由縁からの使いの者の判断だと思われますが、
今や、
東三河をも治下とされておられる徳川様からは、
寺の存続と共に、
今川の家臣が墓守で残ることを許され、
私が有り難く思い、恐縮致しますのは当然のこと、
大叔父も感謝の念に絶えがないようでございます」

 「宗派は何か」

 「浄土宗でございます」

 「徳川もそうだ。
陣を張るというと浄土宗の寺をよく使っておる」

 この時、(うぐいす)がホケッ、ケキョッと鳴いた。
幼鳥であるのか、下手で慣れておらず、
場の一堂に笑いが起こった。

 「梅に鶯。
本日の拝謁を、
天に祝されているかのような思いが致します」

 と、氏真が畏まりつつ、言った。

 「梅の毛虫を食いに来ておるだけだがな」

 仙千代は笑いを堪えた。
長秀ら、信長の(たち)を知っている者達も、
口元が震えている。
 笑いたいのを我慢しているのだった。
何も冗談ではなく、
事実を端的に言い切る性分が信長で、
今も単にそうしたまでのことだった。
 それを知る者達はそのような信長が時に面白く、
つい、笑いが出掛かってしまう。

 「はっ……」

 氏真は困惑し、顔が強張った。
今まで、信長の機嫌に注意の上にも注意を重ね、
無理をして話を続けていたことが伝わった。
 その独特の感性に慣れない者は、
戦国の覇者たる信長の威圧に耐えかね、
素の信長を歪んで捕らえ、間違った信号を受け取ることも、
無いではなかった。





 
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