第342話 熱田神宮(1)

文字数 1,540文字

 天正三年五月十三日、
東三河 長篠城を包囲している武田勝頼を攻める為、
信長は信忠と共に美濃を出立した。

 旧く(ふるく)から美濃と尾張を繋ぐ岐阜街道を使い、
三河が位置する東南を目指し、父子は進んだ。
 長良、木曽という二つの大河を超え、
尾張国 清須城を通り、
旅の初日の陣を敷く熱田に向かう間には、
尾張各地の諸将も加わって、
美濃衆、尾張衆を合わせ、
軍勢は二万以上の大軍となった。
 
 徳川家康は籠城していた吉田城を出て、
生誕の地、西三河の岡崎に移っていた。
 信長が三河に入る頃には、
畿内の丹羽長秀はじめ、各国から武将が参集し、
軍勢は三万を超える予定となっていた。

 古代より信仰を集め、
三種の神器のひとつ、
草薙の御剣(くさなぎのみつるぎ)の鎮座を創祀とする熱田神宮は、
信長が死を覚悟した桶狭間合戦の際、
戦勝祈願をした地であって、
勝利を感謝した信長は壮麗な塀を築いて寄進した。
 信長の父 信秀が、生前、
熱田湊を支配に収めた時から織田家は熱田神宮を崇敬、保護し、
関係を深めた。
 源頼朝の生母 由良御前が、
熱田神宮の神官の娘であったことから、
頼朝は由良御前の熱田の実家で生まれた。
 信秀は初代征夷大将軍を有り難がって、
頼朝生誕地である神宮の西側に誓願寺を建立し、
織田弾正忠(だんじょうのちゅう)家の威勢を示す一助とするなど、
織田家と神宮は由縁を重ねた。

 熱田に差し掛かったところで目に入ってきたのは、
神宮の別宮である八剣宮(はっけんぐう)だった。
武家の信仰が篤いその宮は甚だしく朽ちていた。
 聞けば、元来、
伊勢湾が目の前であることから塩害がある上に、
昨今、幾度か大雨による被害に見舞われ、
社殿が荒廃したのだという。
 信長は直ちに、
宮大工棟梁、岡部又右衛門を呼び、修繕を命じた。

 「積年の強敵、
武田といよいよ戦おうというこの日、
熱田大神(あつたのおおかみ)の御住いが斯様なことでは許されぬ」

 信長は特段に信仰心が篤いわけではないが、
無下に否定するではなく、
とりわけ、兵の士気には敏感で、
街道整備や潤沢な兵糧配布に心を砕くと同じように、
戦神の社殿が廃れているのを目にすれば、
けして放置はしなかった。
 また、先代の信秀は、
ここぞという戦には神職者を伴っていた。
貴族階級である神職者達は教養に優れ、
気象や天文の知識を持っていた。
 殺伐とした戦場で、
兵達の人心安定に与する(くみする)など、
神の道に仕える者の役割は幾つもあった。
 熱田に着いた信長も今回、神職の随伴を決めた。

 仙千代と竹丸は、二人のどちらかが、
神宮との折衝を任されるかと思い、
互いが互いの顔を見たが、
信長は年嵩の他の小姓を指し、任じた。
 織田家と神宮の関係を顧みたなら、
何ら問題が起ころうはずはない、
容易に片付く案件だった。

 やがて、信長が、八剣宮の修繕について、
岡部又右衛門と打ち合わせている間、
仙千代と竹丸が、
束の間の息抜きで何をするでもなく陣の外で休んでいると、
(くだん)の先輩小姓が姿を見せた。
 仙千代が労い(ねぎらい)の言葉と共に確認すると、
無事、同行の許可を得られたという。

 「二名、お連れするお許しを頂いた」

 興味の薄そうな顔をしていた竹丸が、

 「二名?」

 と、あからさまに眉をひそめた。
 仙千代も、

 最初から儂か竹が行けば良かった……

 と、咄嗟に思った。

 「二名で十分であろう。
禰宜(ねぎ)の御二方だ。
槍、鉄砲を持って戦うわけでなし」

 信長に報告しようと、
二人の前を通ろうとした小姓を竹丸が制止した。

 歩みを止められた相手は怪訝そうにした。
それに対して竹丸が放った。

 「それでは子供の使いにも等しく。
話にならぬ」

 「何!」

 竹丸は相手を怒らせた。
怒らせた当の竹丸は痛くも痒くもない顔で、
何ら取り繕うことなく、冷えた眼差しだった。
 竹丸にはこのようなところがあって、
賢くも怜悧でもなく、
しかも、努力が足りぬと見た相手には、
容赦なく嫌悪の色を露わにした。

 
 
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