第46話 将軍追放

文字数 1,066文字

 信長は将軍の反撃に備え、
織田軍が多勢で一気に近江の湖を押し渡ることができるよう、
大船の建造を命じ、陣を湖畔の佐和山に据えた。

 夜も昼もなく作業させたので、大船は二月(ふたつき)かからず完成し、
物凄い大船には皆が仰天した。

 案の定、文月五日、
将軍義昭はまたもや信長に敵対の兵を挙げた。
翌日、信長は大船に乗り、おりからの風をついて湖を渡り、
七日には入京した。

 二条の妙覚寺に陣を構え、猛烈な勢いで将軍御所を包囲し、
御所を警護していた公卿衆は信長の大軍に恐れをなし、
降参して人質を出した。

 およそ十日後、信長は将軍が陣を張る真木島へ進軍し、
五カ庄の上のやなぎ山に陣を移した。

 宇治川は水が漲って(みなぎって)逆巻き流れる大河だった。
川面は果てなく広く、波が立ち、
百戦錬磨の諸将すら、渡ることをたじろいだ。

 信長は容赦の色を見せず、

 「この信長が先陣を務める!」

 と放ち、部将達は後に引けなくなった。
 
 「二手に分かれて渡河せよ!」

 という信長の命により、全軍が従った。

 十八日、巳の刻、二つの軍勢は先を争い、
川の中州を目指し、打ち渡り、渡り切ると、しばし人馬を休め、
やがて真木島の城を目指して突撃した。
 佐久間、蜂屋の両部隊だけでも敵の首五十余りを討ち取った。

 織田軍は四方から城の外構えを乗り破り、
火を放って攻めた。

 将軍義昭は、
この真木島の城より優れた城郭はないと考えて立て籠ったのだから、
最早、取るべき手段を失って、自ら応戦した。

 信長は流浪の将軍、義昭の頼りとなって上洛させて、
将軍御所を建ててやり、
何の不足もないように幕府を支えた。
義昭は信長の恩を忘れ、敵対に打って出たのだから、
切腹させても良かったものを、
信長は今後の成り行きに差し障りがないよう、
命だけは助けて追放し、懇望を受けて将軍の幼嫡子(ようちゃくし)
足利義尋(ぎじん)を人質として預かると、

 「恨みに恩で報いよ」

 と言って、河内の若江城まで羽柴秀吉を警固に付け、
送り届けた。

 将軍は、永禄十一年、信長が伴となり入京した際は、
諸将が居並んで前後を囲み、草木もたなびく権勢だった。
 誰もが義昭の強運を敬慕し、崇めた。
 この敗北で義昭は「貧乏将軍」と揶揄されている。

 涙に濡れる鎧の姿で民衆の前を歩く将軍は、
自業自得で、秀吉が伝えるには、

 「哀れを誘われる者もおり……」

 という話だったが、信長にしてみれば、
命があるだけでも僥倖だろうとしか思われなかった。

 京都所司代には、
信長が尾張統一に辛酸を舐めていた時からの古参の重臣、
村井貞勝が任命された。

 信長はどの方面でも満足な成果を収め、
葉月四日、岐阜城に帰還した。

 

 

 


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