第55話 虎御前山 蛍

文字数 1,605文字

 仙千代の姿に魅入られ、存在を愛しく思い、
立ち去る機会を逸した信忠は、息をひそめていた。

 やがて仙千代が虫の鳴き声を真似たり、
月に向かって叫んだりした。

 飛蝗(ばった)以外は似ていなかった。
月に吠えた台詞もちょっと頓珍漢だった。
 だが、そんな仙千代が好きだった。
思わず小さく笑ってしまい、その時、気付かれてしまった。

 ハッと驚いて振り返り、
こちらを見上げた顔の半分に月の光が当たり、
一瞬の表情は驚きと共に明らかに喜びを表していた。
 次に直ぐ、唇を噛み、眉根を寄せ、俯いた。

 畏まり、作法通りに振る舞う仙千代に、
胸が締め付けられた。
 ここには二人しか居ない、月が見ているだけだ、
二人きりの時にそんな真似をすることはない、
そう言ってやりたかった。

 しかし、言えなかった。
二人の間の溝を埋めてしまえば、仙千代の未来も、
もしかすれば、生命も閉ざされてしまう。

 信忠が発せられる精いっぱいが、
仙千代の、

 「月もこちらを見ておりますね」

 に対する、

 「飛蝗の鳴声が上手かった。月も面白く聴いたであろう」

 というひとことだけだった。

 ようやく、偶然の僥倖とはいえ、二人きりになったのに、
触れるどころか、親しく話すことすら叶わず、
泣きたいような気分だった。

 月明かりの中、こちらを見上げている仙千代は、
白眼と黒目がくっきり分かれ、
木の実のような形をした眼の縁を睫毛が細やかに囲み、
温かな眼差しの瞳は澄み切って、信忠の言葉に口元が笑んでいた。

 今ここで、枝から飛び降り、
名を呼んで、抱き、百万回でも謝りたかった。
そして、赦されたなら、夜を通して溶け合って、
どれほど強く深く慕っているかを伝えたかった。

 信忠は幻想を振り払い、立ち去ろうとして、
地に降りた。

 その時、渓流に光が灯った。
光りの群れは点滅し、ふわりふわりと浮かび、
群舞の形容を変えながら、揺らめている。

 仙千代が、

 「あっ」

 と、控えめな声をあげた。
そして、信忠を振り向くと、

 「平家蛍ですよ。あれは平家の蛍」

 と嬉しそうに教えた。

 最近の信長は、源平交代説を採っていて、
胴服も旗印も平家の家紋、揚羽蝶を好んで用いていた。

 信忠は、仙千代の笑顔に視界が曇った。
あれほど嫌な目に遭わせたのに、
平家蛍を見付け、信忠に純な笑みを向ける。

 耐えられなくなった信忠は涙を堪える為、
息を大きくつくと、

 「もう、じきに秋じゃ。蛍も見納めだな」

 と淡白を装って言い、城へ戻る様子を見せた。

 輝いていた仙千代の笑顔は、
一瞬にして慎ましやかな微笑に変わり、
その微笑が悲しみを湛えているのを信忠は認めた。

 「若殿!若殿!」

 三郎達の声がしていた。
道を辿って、こちらへ近付いてくる。

 「ああ、若殿!探しました!」

 三郎はじめ、四、五名の小姓達だった。

 「お月見ならば、誘ってくださいませ!
お一人でお出掛けになられては困ります。
いつも申しておりますのに」

 「若殿、皆、心配したのですよ!」

 「あいわかった!もう戻る」

 ある意味、良いところにやって来てくれたと、
言えないわけでもなかった。
 二人きりは、仙千代への想いが溢れ、耐えられず、
気がおかしくなりそうだった。

 清三郎が、

 「仙様!若殿とお月見ですか?」

 と仙千代を「仙様」と何故か呼び、笑い掛ける。
仙千代は困惑気味に、

 「偶然お会いしたまでじゃ」

 と清三郎に応じた。

 三郎も仙千代に声を掛ける。

 「今、瓜を切ったんじゃ。
仙千代も一緒に皆で食べよう」

 三郎は仙千代の肩を組んだ。

 「今夜の月に負けない、美味しそうな黄色をしておる。
食べよう、食べよう、皆で食べよう!」

 仙千代が微苦笑を浮かべ、

 「そうだな。馳走になる」

 と、三郎の肩に腕を回した。

 三郎の根の無い陽気さは、やはり捨て難かった。
清三郎も仙千代を慕っているようだった。
 信忠は小姓達の気立ての良さを嬉しく思うと同時、
仙千代と肩を組み、何やら冗談を言い合って歩く三郎を、
羨ましく思った。


 


 



 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み