第388話 志多羅の戦い(7)毒殺

文字数 1,551文字

 信雄(のぶかつ)が疑念を呈した信玄の死因については、
信忠も耳にしたことがないではなかった。
 だが、信長が、
それを口の端に上らせたことは無く、
であるならば、
信忠や信雄はそのような話は、
あくまで根拠のない噂として心中に留め置き、
軽々に口にすべきではないというのが、
信忠の考えだった。
 たとえ妙に真実味を帯びて聴こえる噂であっても、
噂は噂で、
それ以上でも以下でもなく、
噂に惑わされ、言の葉に上げるなど、
もってのほかでしかない。
 将兵が矢雨を浴び、
血飛沫(ちしぶき)に染まって命のやりとりをする戦場を、
若輩に過ぎぬ自分達兄弟は高みで総覧している。
 そのような二人が、
大身の名将の命が薬殺で奪われたなどという、
どす黒さを帯びた話を今この場でするなど、
信忠の思考では有り得なかった。

 三介よ、それは、
敵味方双方が幾年もかけて準備し、
臨む合戦の場にふさわしい所懐ではない……
蛙は口から呑まれると教えたであろう……

 信雄に、
再度注意を与えることさえ厭ましいと、
信忠は受け止めた。

 ただ信雄は、自らの失言を知って、
詫びた上、押し黙った。
 信忠は、
信雄が自身で誤りに気付いただけでも、
幸いであるとすることとした。

 志多羅の霧の合間に、
騒擾(そうじょう)とも小勢り合いとも別の付かぬ音声(おんじょう)が、
湧き起こっていた。
 鳶ケ巣山(とびがすやま)砦を落とされ、
武田勝頼が西へ攻め込んできたのだと知れた。

 いや、攻め込んだのではなく、
鳶ケ巣山を本砦とする砦群を失い、
それを見た長篠の城兵が、
喜び勇み、一気に運を開いて、
酒井、金森に合流し、
混乱した武田兵は、
気付けば志多羅に追い込まれたのか……

 睥睨(へいげい)すると、
永楽通宝の御指物は、
未だ家康の旗と並び、はためいていた。

 信忠、信雄の背後に控えた河尻秀隆が、

 「これだけの霧。
数多の名将を擁する武田といえども、
織田軍、徳川軍の全容はおろか、
陣城の存在さえも、
つかみ切れておらぬやもしれませぬ」

 と、呟いた。

 「霧に視界を阻まれて、
将兵の数も陣形もあやふやであれば、
今の今、この今なれば、
退却が可能ではないか」

 信忠が秀隆に問うと、
脇に居た信雄が、

 「若殿が仰せの通り、
戦に於いて楽観は禁物にて、
最小の損害で済ませるべく、
ここは一旦、
退くが正しいかと思われます」

 と、口を挟んだ。
 ついさっき、
余計なことを言ったと己が気付き、
殊勝な顏を決め込んでいたはずなのに、
もういつもの信雄に戻っている。

 信忠は内心、
苦笑いしか出なかった。

 「与兵衛尉(よひょうえ)なれば、
儂が勝頼だとして如何なる進言を致す」

 秀隆に信忠が問うた。

 「連合軍の手勢、
装備を存じております故、
そこをお含み置きいただいた上で、
言上(ごんじょう)仕りますれば、
突撃は無謀だとしか思われませぬ。
上様は長島討伐戦で十万の兵を出され、
先の畿内南方に於いても、
やはり十万の巨兵をもって敵を圧倒された。
武田の重臣達は、
信玄の代から続く歴戦の猛将達にて、
鳶ケ巣山から火の手が上がった時点で、
撤退を奏上しておるに違いありませぬ」

 信雄は小鼻を膨らませ、
我が意を得たりとばかりに、
秀隆の言に大きく頷いている。

 「うむ……
なれど結果は見ての通りだ。
志多羅原の合戦は端緒が開かれた」

 と言った信忠の胸中は、
自身でも意外なほどに醒めていた。
 半日か、一日か、
しばらく後には勝鬨(かちどき)が上がるであろう、
連合軍の将である信忠ではあるが、
勝頼の焦燥、懊悩を知るにつけ、
かつて確かに義兄(あに)であった敵の総大将に、
頭の片隅で、
複雑な思いを消し去ることができないでいた。

 眼下では、
予め命じられていた織田の足軽達が、
連吾川の対岸の武田兵を挑発していた。
 雑言の口礫(くちつぶて)を放ち、
矢を射るかと思えば槍を突き出し、
やり返されれば直ちに背を向け、
「弱い尾張兵」そうろうに、
西へ向かって逃げ帰る。

 雨が降り続いた後の霧は濃く、
快晴に至るには、まだ遠かった。
 






 


 


 





 

 





 
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