第266話 氏真 来訪(5)

文字数 795文字

 「その場に居らぬ親の仇を上様と呼ぶことは、
私なら、したくはございません。
左様に呼ばねばならぬでも、一度でも少なくと、
願いましてございます」

 勝九郎は唇を尖らせ、頬を膨らませた。

 「勝が聞けば泣いて喜ぶであろう、
息子の孝行心に」

 信長は乳兄弟の恒興、つまり勝九郎の父親を、
未だ時に勝三郎と幼名で呼び、
父子共に短く言えば「(かつ)」だった。

 「顔を合わせば、
過誤が多いと父には叱られてばかりでございます」

 「あの勝の失敗談も数えきれぬほど、
儂は知っておる」

 「ははっ!」

 意味不明の「ははっ」に信長は笑った。
焦点のずれを笑われている当の勝九郎が、
晴れ晴れとした笑みを返してみせたので、
困惑顔の信長が仙千代に苦笑を向けた。
仙千代は信長の勝九郎への親しみを受け取った。

 今も氏真がこちらへ着くまでの手遊び(てすさび)とはいえ、
信長はこれと思った小姓には、
過去幾度か繰り返された話であっても、
よく応じてくれた。
 少なくはない小姓や家臣が信長の短気を恐れていたが、
仙千代は気短の弊害や勘気を被ったことがなく、
時に悠長に過ぎるきらいがある勝九郎も、
信長は口では色々言いつつも、話す口調に慈愛があった。

 勝九郎には伸う伸うと(のうのうと)したところがあって、

 「上様とお呼びする方が宜しいのでしょうか、我らも」

 と、訊いた。

 信長は仙千代に振った。

 「仙はどうだ」

 信長にとってはどうでもいいことなのだと、
仙千代は思った。
何と呼ばれようが信長のすることに変わりはなく、
上様という称号に拘るのなら、
誰にもとっくの昔にそう言わせている。

 仙千代は、

 「本日より上様とお呼び致します」

 と答えた。
 どちらでもいいのなら上様であっても構いはしない。

 「ではそうしよう」

 仙千代を見た信長の口元に笑みが浮かんだ。
仙千代もほんの微かに笑った。
 
 勝九郎が、

 「上様、来者(らいしゃ)がこちらに着いたようでございます」

 と声を掛けると、信長は顎をひいて頷いた(うなづいた)



 
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